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by le-moraliste
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太宰治

人に薦められて太宰治の『人間失格』を読んだ。これまで太宰の小説を読んだのは、新潮文庫版の短編集『走れメロス』のみ。掌編「走れメロス」自体、子供が読むにはもったいないくらいの美しい文章で編まれていて、非常に感心した覚えがある。また他にも優れた短編小説が収録されていたので(「駆込み訴え」が最高)、太宰の小説には基本的に好意的な印象をもっている。

『人間失格』はあまりに大げさな問答に「あ、これが太宰か」と、改めて世間で云うところの太宰の小説の評価しにくさを納得したが、それでも必ずしも独り善がりばかりではないところに太宰の凄みがある。

そして太宰の『晩年』を今読んでいるところ。「晩年」という小説はなく、最初の短編集の題を「晩年」と名づけた太宰治の衒い。確かに長い病(それは自業自得のものだが)によって当時の太宰の顔は驚くほど老けて見えたらしいし、人生を彼なりに生きた実感をこめたものかもしれないが、要はこれこそ太宰の独り善がりでしかない題名。しかし―。

「思い出」という短編が、中でも秀逸。以下、元気がないので後日。
# by le-moraliste | 2006-03-06 20:16 |

角川春樹と堀江貴文

父・源義が創業し当時斜陽にあった角川書店に昭和40年、入社した角川春樹は、立て続けのベストセラーや映画製作の成功で会社を完全に蘇生させた。だが、平成5年8月、角川はコカイン密輸容疑で逮捕される。そして最高裁判決で懲役4年の実刑判決を受けたのち、平成13年に収監された。

平成16年4月8日に刑務所から出所した角川は、再び映画製作に取り掛かる。それが『男たちの大和』であった。1月29日付の『産経新聞』で『男たちの大和』のインタヴューに角川は応じた。記事はこのように締めくくられている。
堀江貴文から今年に入って、共通の知人を通じ「会いたい」という連絡があった。映画製作に関する件だったという。堀江の生き方は否定するが、もし彼が生まれ変わって出てくるのなら、会ってやりたいと思っている。

「時代の寵児なんていわれると、あるとき現実が見えなくなる。私もそうだった。たぶん彼は何もかも失うでしょう。無一文になる。結構じゃないか。そこから彼の本当の人生が始まる。そのとき私を訪ねてきたら、親身になって相談に乗ってあげようと思う」
私も、無一文となって戻ってきた堀江貴文をこうした視線で眺めてみたいと思う。あの、常人にはないヴァイタリティを発揮できる堀江貴文には、好悪の感情は別として、関心があり続けるのだ。少なくとも、テレビで堀江が話す場面を観た私は、彼の頭の鋭さ、観点の独自性に驚きはしたのだ。手段は姑息であろうとも、論理の明晰さは誰にでも持ちえるものではあるまい。
# by le-moraliste | 2006-01-29 21:21 | 新聞・ニュース
あけましておめでとうございますだなんて挨拶は失礼させてもらい、年末は実家に帰っていた私は自由な時間がほとんどなかったけれど、その少ない時間を利用して借りたDVDを観ていた今年の正月。

特別目的があって借りたわけじゃないが付き添いでレンタルビデオ屋に足を運んだとき、目に飛び込んできたのがアルフレッド・ヒッチコック監督作品『鳥』(The Birds)。うちの近所のレンタル屋では置いていなかったため探したときもあるのだが半分あきらめていたこの名作を偶然といえば偶然観ることができたのだ。(それにしても新PCは快調そのものだ。)

あらすじは書くまでもなく、ある街に鳥の大群が押し寄せ突如不可解にも人間を襲うサスペンスなのであるが、1963年公開のこの映画には当時としては画期的であるらしい撮影技術が用いられていて、CGの発達した現在の映画を素直に愉しむ私などは処理の荒さが気になる一方で、それでも゛鳥の大群″の怖さは実感できる映像ではあった。なかでも最後の場面、一家が車で鳥の群れの中を静かに走り去っていく情景は、あとで知ったことだが多数の合成技術が利用されており、それとは一見わからない見事な映像であった。

DVDの特典映像も面白かった。ヒッチコックの娘や主演女優のティッピー・ヘドレンの生声を聴くことができたから。そのティッピーがヒッチコックの映画理念を語っていた、その理念、「観客を登場人物よりも先に歩かせる」という一節が印象に残った。それがサスペンスの鉄則なのである。また、蛇足だけれど、映画の登場人物で最も美しいと思ったのは、スザンヌ・プレシェット(↓)である。
『鳥』とか『女王の教室』とか『永遠の仔』とか久世光彦とか_d0043538_1841793.jpg


もうひとつ、DVDで観たのは『女王の教室』。第一話、第二話が収められている。『女王の教室』は最終回を観逃していたためそれを観たいと思っていたにもかかわらず、残っていたのは最初のコレのみ。けれど、第一話は未見のため「ま、いいか」と借りてみたわけである。やはり面白かった。子どもの醜さと大人の醜さが同時に見られていいぢゃないだろうか。

忘れていたのだけど、レンタルVHSで『永遠の仔』も観たのを思い出した。これも第一話、第二話のみだが、なかなかよいドラマである。天童荒太の原作を読んでいるが、テレビドラマ化されていたのは知らなかった。かなり前らしいけれど、続きが観たい。さて、近所のどこに置いてあるだろう。

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今日の名言

「ほかの人のドラマを観ないということもあるんでしょうけど、僕は自分が作ったドラマで泣くんですよ」久世光彦『週刊文春』1月5日・12日新年特大号)

「私が泣いたテレビドラマ」という特集で各著名人がテレビドラマ一本ずつ紹介しているのだが、自分が演出したドラマを提示しているのは、久世氏ただひとり。面白いぢゃないか。ちなみに『夏目家の食卓』というドラマを演出して泣いたらしい。
# by le-moraliste | 2006-01-04 18:53 | 映画

テスト

テスト_d0043538_354324.gif
背景素材用に
# by le-moraliste | 2005-12-31 03:43 | メモ
たとえば、こういう記述。
「人が死ぬのって、素敵よね」と娘は言った。
     (中略)
「そういうのをメスで切り開いてみたいって気がするのよ。死体をじゃないわよ。その死のかたまりみたいなものをよ。そういうものがどこかにあるんじゃないかって気がするのよね。ソフトボールみたいに鈍くって、やわらかくて、神経が麻痺してるの。それを死んだ人の中からとりだして、切り開いてみたいの。いつもそう思うのよ。中がどうなってるんだろうってね。ちょうど歯みがきのペーストがチューブの中で固まるみたいに、中で何かがコチコチになってるんじゃないかしら? そう思わない? いや、いいのよ、返事しないで。まわりがぐにゃぐにゃとしていて、それが内部に向うほどだんだん硬くなっていくの。だから私はまず外の皮を切り開いて、中のぐにゃぐにゃしたものをとりだし、メスとへらのようなものを使ってそのぐにゃぐにゃをとりわけていくの。そうすると中の方でだんだんそのぐにゃぐにゃが硬くなっていってね、小さな芯みたいになってるの。ボールベアリングのボールみたいに小さくて、すごく硬いのよ。そんな気しない?」(「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
そんな気がするだろうか? 普通は理解できない言葉の連なりである。「死のかたまり」とか「ぐにゃぐにゃしたもの」とか、村上春樹の小説にはこんな著者独特の云い回しが頻繁にでてくるが、ちょっと読み流しただけでは把握不可能な、熟読したところで結局判然としないこれらが実は村上春樹の゛怖さ″を巧みに演出している。理解しえないものを理解可能に思わせる技術がうまい。不可能性の提示それ自体で゛怖さ″を感じさせることはできるものだ。

私は、村上春樹の小説に登場する人物、とりわけそれが女性の場合にはどうしても平板な人物像を印象してしまう。バラエティの乏しさに苛々することもあるし、現実性のない彼ら彼女らの言葉を素通りしたくなるときもある。けれど・・・。

認識を多少なりとも過剰にもつ人々はその「死のかたまり」が何であるのか、「ぐにゃぐにゃしたもの」のイメージを想像してしまうのである。そして、ここが大事だが、そこに何かしらの現実性を、一瞬だとしても見出してしまうことがあるのだ(私には実はない)。読者は村上春樹の小説を読むとき、何か、人間の深遠なるものを発見した気になって、゛怖さ″や゛感動″を覚えるのだろう。私にとっては不可能性それ自体をケレンもなく書ききる村上春樹の力に感銘をうける。

しかし、そんな私も、「沈黙」という短編を読んだときにはずいぶんと驚いた。不可能性への驚きではなく、村上春樹の真髄が仄見えたことへの驚きである。

この短編はひとりの男の独白がほぼ全てを占めている。そしてその独白がなんとも魅力的なのだ。それはさながら、ドストエフスキーの小説を思わせる。
「そういう強烈な経験をすると人間というのは否応なく変わってしまいます」と彼は言った。「良い方にも変わりますし、悪い方にも変わります。良い方で言えば、僕はそのことでずいぶん我慢強い人間になったと思います。あの半年に味わったことに比べれば、それからあとに僕が経験した苦境なんて、苦境のうちにも入らないようなものでした。あれに比べればと思うと、僕はたいていの苦しいこと辛いことは頑張ってしのぐことができました。そしてまわりの人々が受けている傷や苦境のようなものに対しても、人並み以上に敏感になりました。これはプラスの点ですね。そういうプラスの特質を得たことによって、僕はそのあと何人かの本物の良い友人を作ることができました。でもそこにはマイナスもあります。人間不信とか、そういうものじゃありません。僕には女房もいますし、子供もいます。僕らは家族を作り、お互いを守りあっています。そういうものが信頼がなければできないことです。でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何かひどく悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家族やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先例がどうなるかはわからないんだぞって。ある日突然、僕の言うことを、あるいはあなたの言うことを、誰一人として信じてくれなくなるかもしれないんです。そういうことは突然起こるんです。ある日突然やってくるんです。僕はいつもそのことを考えています。この前はそれがなんとか六ヶ月で終わりました。でも次にもう一度同じようなことが起こったとき、それがどれだけ長く続くのかは誰にもわからないんです。そして僕はこの次自分がどれくらいそれに耐えられるかどうか、まったく自信が持てないんです。僕はそのことを考えると、ときどき本当に怖くなります。夜中にそういう夢を見て飛び起きることもあります。というか、そういうことはしょっちゅうあるんです。そういうとき僕は女房を起こすんです。そして彼女にしがみついて泣くんです。一時間くらい泣いていることもあります。僕は怖くて怖くてたまらないんです」
この独白はあまりに強烈である。リアリズムを村上春樹は完全に理解しているのである。それでもなお、幻想に誘うのはなぜかという疑問がありはしても、この短編さえ読んでみれば村上春樹の力が誰にでもわかるだろう。少なくとも、私にとっては、この独白には涙なしには読めない感動があるのだ。
# by le-moraliste | 2005-12-03 15:27 |