――三木清『人生論ノート』②(暫定文)
2005年 06月 08日
【「幸福について」】
「死について」に続く「幸福について」という文章にはいくつか興味深い話題がある(どの章もそうだが)。1940年頃の時代的背景を感じさせ、また当時最新の哲学であった現象学の影響も垣間見える。その意味で、ここから三木清の拠って立つ立場が、より明確になるかもしれない。
(なぜか、急にドストエフスキーが読みたくなったので、彼の小説の中で最も美しいと思う『虐げられた人々』を読んでいる。終わるまで、三木中断。「幸福について」は既に読み終わっているけれど。)
「死について」に続く「幸福について」という文章にはいくつか興味深い話題がある(どの章もそうだが)。1940年頃の時代的背景を感じさせ、また当時最新の哲学であった現象学の影響も垣間見える。その意味で、ここから三木清の拠って立つ立場が、より明確になるかもしれない。
過去のすべての時代においてつねに幸福が倫理の中心問題であったこの随筆はこの指摘から始まる。たとえば「幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるだろうか」という問いは通俗的なもので説得力はあまりないが、もちろん、三木には「幸福」を追求する別の意義があった。それは、倫理学の真髄は「幸福」であるという歴史と、「社会、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしている場合、幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか」という時代的な要請である。昭和13年と云えば、中国戦線は泥沼化の様相をすでに見せ(盧溝橋事件は昭和12年)、日米戦争に突入する寸前の切羽詰った国内・国際状況があった。そんな閉塞感に陥っている観のあった日本の現状に人間の不幸を感じとるのは、鋭敏な三木にとっては至極当然のことであったろう。
(なぜか、急にドストエフスキーが読みたくなったので、彼の小説の中で最も美しいと思う『虐げられた人々』を読んでいる。終わるまで、三木中断。「幸福について」は既に読み終わっているけれど。)
by le-moraliste
| 2005-06-08 03:04
| 本