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by le-moraliste
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江藤淳の不安――大塚英志『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社)①(暫定文)

『抱擁家族』を、断片化しつつある現代社会の見事な描写であると高く評価した江藤淳は、断片化=サブカルチャー化する文学にも比較的寛容であった。ただし、それは、小説がそういうものとしての文学に批評眼を向けている限りにおいてのことである。ただの「反映」だけでは文学ではない。「批評」しなければならないと、自らの文学的立場を明らかにしていた。

有名な話であるが、江藤淳は田中康夫『なんとなく、クリスタル』(1981年出版)をその視点から絶賛し、村上龍『限りなく透明に近いブルー』(1975年出版)を同じ視点から痛罵した。この二作品は、70年代以降の産物であるということだけでサブカルチャー化する文学とみなされるわけではない。江藤淳は「サブカルチュア」を、「地域・年齢・あるいは個々の移民集団、特定の社会的グループなどの性格を顕著にあらわしている部分的な文化現象」(『サンデー毎日』76年7月25日)と定義しており、どちらの作品も限られた領域の住民をテーマにしている点であてはまるのである。『なんとなく、クリスタル』は東京の、モデルを兼ねるいささか裕福な女子大生の周辺、『限りなく透明に近いブルー』は在日米軍基地周辺に住む若者たちの放埓な生活が主題だ。

以前、『限りなく透明に近いブルー』を読んだとき、なぜこれが芥川賞なのか、と私はまず思った。文章は小気味よく流れていくが、語られる内容は20歳頃に読んだ私でさえ、気持ち悪いものと映った。サブカルチャーであるから、そのカルチャーに属さない者にとっては無縁な世界なのかもしれないが、そのカルチャーの一員であることを仮に夢想してみても、言葉の魅力は低いものだったし作品のリアリティそれ自体が失われていると感じた。だから、江藤淳がこの小説を切り捨てたことに理解できるのである。

だが、『なんとなく、クリスタル』の読後の感想も、それとはさほど異ならないものであった。膨大な「注」に意味があるとあらかじめ云われていようとも、その「注」の多さは読みにくいだけではなく、そもそも「注」に書かれていることが〝理解″できなかった。それは、ただ単に、80年代の東京の若者文化に無知であるからかもしれない。一応、その保留はしておいて、私は評価することを避けた。その「保留」を促したのが、江藤淳のこの言葉である。

いまの東京のいったいどこに、都市空間などというものがあるのだろうか。そんなものがもはや存在していないことを、完膚なきまでに残酷に描き切ったところが、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』の新鮮さではなかったのか。田中君は、東京の都市空間が崩壊し、単なる記号の集積と化したということを見て取り、その記号の一つ一つに丹念に注をつけるというかたちで、辛くもあの小説を社会化することに成功しているのではないか。(江藤淳・蓮実重彦『オールド・ファッション』中央公論社)
新潮文庫版の『なんとなく、クリスタル』の著者あとがきからの孫引きであるが、まず、自分の著作の「あとがき」に他人の高評価を載せることに対して、田中康夫は恥じらいを感じなかったのだろうか。自作に自信が持てなかったから江藤淳という権威を導入したと考えるつもりはないが、それにしても「あとがき」の全体に漂う、田中の絶対的自信が、実際に読んだ私個人の印象とどうしても噛み合わないのである。

(以下、後日)
by le-moraliste | 2005-05-27 04:08 |