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by le-moraliste
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自由と生と死と――江藤淳『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)①

この本を読むために、主に扱われている小島信夫『抱擁家族』(講談社文芸文庫)を読んだ。一見すると、弱々しい家の主人・三輪俊介の、家をなんとか再構築しようという、もどかしい、しかし無駄に終わらざるをえない努力が印象に残るばかりで、読んでいる最中は、後に江藤淳が解き明かすような重々しい現実を反映しているようには思えなかった。

けれども『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)を読み終えて、たしかに『抱擁家族』は戦後の一時代を見事に切り取った作品であることがわかった。その『成熟と喪失』からいくつか引用してみよう。

俊介がそれによって生きて来たイメイジが完全に崩壊したとき、彼の前にはにわかに実在があらわれる。彼が「喪失」し、「自由」になったということは、彼があらゆる役割から解放されたということである。

(本文中の「カメの中に水があった。水がなぜ気にかかるのだろう。なぜカメの中の、とるにたらぬ水が、そこに在る、そこに在ると思えるのだろう」という有名な文をうけて)それは生の感覚であり、世界というものの重みであり、同時に俊介という完全に孤独な人間の視線がとらえたものの感触である、役割から解放されたとき、人はそこで日常生活が営まれている社会の次元から、単に存在しているものの次元にすべり落ちる。

これは完全な解放であるが、同時に「死」でもある。そういう「まぶしい」存在を眺めながら人は生きつづけることができないから。生きつづけるためには、人は何らかの「役割」を引き受けなければならないから。
これらの文を読んで、真っ先に思い浮かべたのは、もちろん、サルトル『嘔吐』(人文書院)である。すべての観念が消去され、ありのままの存在が眼前に立ち現れてきたとき、ロカンタンは〈吐き気〉を催す。

周囲を私は不安気に眺めた。現在だけだ。現在以外のなにものもなかった。現在という殻に覆われた軽くてしっかりした家具類、机やベッドや鏡つき洋服箪笥――そして私自身。現在の真の性質が解明された。それは存在するものだった。そして現存しないものはすべて存在しなかった。過去は存在しなかった。少しも存在しなかった。事物の中にも私の思想の中にさえもそれは存在しなかった。

事件がそれぞれの役割を終えると、それはおとなしく箱の中に並んで収まり、名誉の称号のついた事件となった。それだけに、無を想像することは容易なことではない。いま私は知ったのだ。事物はまったくそれがそう見えるものであり、――そしてその〈背後〉には……なにもないということを。
事物の〈背後〉、すなわち事物の意味は「ない」という真実を知って、人は当惑する。その当惑を恐れて、人は、真実を見ることを避けようとする。しかし、「自由」の本質は、実はそういうことなのだ。完全に「自由」となった人は、あらゆるものの〈背後〉にあった意味の「死」に直面する。あらゆるものが「『まぶしい』存在」に見えたとき、自分という存在の不安にさえ恐れ戦く。だから「自由」な個人は「生きつづけることはできない」。なんらかの「役割」を自分を含めたあらゆるものに見出そうとする。

三輪俊介は、妻の不貞と開き直り、そして妻の死に立ち会って、まさしく「自由」な状況に追い込まれた。だが「神」という超越的存在の助けを得ることができないため、その不安を生きることは彼には到底不可能であり、そうして彼は「父」であることを性急に求め始める。しかし、「父」であろうとしたことのない俊介には、それがどういうことなのか皆目わからなかった。ただただ「自由」の渦に流れ込むだけであったのだ。それが『抱擁家族』の描いた戦後日本の実態である。
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by le-moraliste | 2005-05-20 15:35 |