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by le-moraliste
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「実感」のない小説――森本哲郎『懐かしい「東京」を歩く』③

――承前

前回において、森本哲郎が、二葉亭四迷は「正直」でありたいという願望によって文学をも「虚偽」として軽視していた、と書いていたことを紹介した。では、二葉亭本人は文学についてどう考えていたのだろうか。

坪内祐三編・高橋源一郎編集解説の『明治の文学 第5巻 二葉亭四迷』(筑摩書房)に収められている「私は懐疑派だ」(明治41年)という一文からの引用。

人生といふものが何も具体的にそこに転がつてゐる訳ぢやない。斯うやつて御互に坐つてゐるのも亦人生に漬かつてゐるのだから、人生に対する感を持たれぬといふ筈もない。だから追想とか空想とかで作の出来る人ならば兎も角、私にやどうしても書きながら実感が起こらぬから真剣になれない。古い説かも知らんが私の知つてる限りぢや、今迄の美学者も実感を芸術の真髄とはせず、空想が即ち本態であるとしてゐる。この空想とは、例の賊に追はれたことを後から追懐する奴なんだ。さうすると小説は第二義のもので、第一義のものぢやなくなつて来る。否、小説ばかりぢやない、一体の人生観といふ奴が私にや然(そ)う思へるんだよ・・・・・・
この一文の前段で二葉亭は「実感」についてこだわりを見せている。盗賊は追われているときに怖いという「実感」と感じるが、それを追想するときにはその「実感」は薄れているように、小説を書くときもどうしても「直接の実感」がないため真剣になれないと云う。そうして、人生の「実感」ではなく平時の「空想」を芸術とすることに強い嫌悪の情を露わにする。題にある「懐疑派」とは、このような芸術、及び思想や論理について「人間の真生活(リーヤルライフ)とどれだけの関係があるか」と疑っていることを示しているものである。

心理学上、人間は思想だけぢやない。精神活動力(メンタルエナージー)の現はれ方には情もあれば知もあり意もある。それを思想だけ整理しても駄目ぢやないか。
小説は作者の「思想」を現出させただけのものか――これについては、現在は否定される種類の考えだろう。二葉亭の云うように「思想」は思想単独で存在するものではなく、「情」にも「意(志)」にも左右され、互いに重なり合うものであり、小説で表現される思想もまた、作者の意図とは別に情や知が織り交ぜられたものであるからだ。だが、小説の草創期に生きた二葉亭のこの〝実感″――小説が「実感」を虐げているという実感――は、けしてナイーヴなものではないように思われる。

後に自然主義派が登場するまで(『平凡』と自然主義はオーヴァーラップしているが)、日本の小説ははしなくも思弁的なものであった。『浮雲』の主人公、内海文三は住み込みの書生といった身分だし、『平凡』の彼は吉田松陰に心酔する「浮世の落伍者」。いずれも社会の成員を成しておらず、会話も欧米の哲学者の名前が頻々登場する。誰が云ったか、「書生の一部屋」で小説は書かれていたのである。社会の現実と離れて、いかに「実感」の込められた小説が書けるだろうか。二葉亭はそのことに、無反省ではなかったのだ。

(以下、続く)


【追記】
近代という視点で考えてみると、近代は「個人」が第一義的な現象となった時代であるから、「書生の一部屋」で書かれる小説というものにもそれなりのリアリティはあったわけである。読者のほうも、自意識を抱く「個人」としてそのような小説にいくばくかの実在を感じとったのではないか。思弁的な小説も、読者が思弁的な精神を手に入れた限りは、もはや゛思弁的″でなくなるだろう。(2005.7.13.)
by le-moraliste | 2005-07-10 02:42 |