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by le-moraliste
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懲りずに、また将棋の話。

王将戦第四局の大盤解説会にまた足を運んだ。途中まで(仕事場で)ネット観戦してから、夕方、ひとり千駄ヶ谷の東京将棋会館へ。

羽生王将に佐藤棋聖が挑戦する本局は羽生2勝、佐藤1勝で迎え、各棋戦で挑戦者の資格を獲得するもののなかなかタイトル獲得には至らない佐藤棋聖にとっては、流れを変えるために是が非でも落とせない対局。さて、どうなるものだろう。

解説会の開始時刻からは少々遅れたが会館に到着すると、同じく会館に入ろうとする女子高生らしき女の子がふたり。なんでここに女子高生が、と訝しく思ったがそのまま会館に入れば、石橋女流と遭遇。そういえば、今日は飛躍著しい里見女流との対局だったけか、結果はどうなったろうと気になりつつも解説会の開場に。

今日は上野四段と鈴木環那女流による解説。以前、このおふた方が解説会を行なったところ評判がよかったため今回ふたたびこの組み合わせということで、結構愉しみにしていた。場は相変わらず年配の方が多く、およそ50名ほどの参加者がすでに解説に聞き入っていた。

と、そこに私よりさらに若いお客がやってくる。先ほど玄関で出会った女子高生ふたり。珍しい趣味だなと一層訝しく思ってよくよく彼女たちの顔を見てみれば、なんと、ひとりは新女流棋士の伊奈川愛菓嬢ではあるまいか。もうひとりは見覚えがないのでたぶん彼女の友人だろう。棋士はふつう、棋士控え室で検討をするものだと思っていたので意外であった。友人が一緒だから、解説会のほうに来たのかもしれない。

さて、解説会のほうだけれど、なるほど、たしかにふたりの掛け合いがなかなか面白い。環那女流の場を盛り上げようというひとつひとつの気配りが愉しく、上野四段のわかりやすい解説も(とりわけ素人の)私にはとてもありがたかった。常連が多いのだろう、お客さんとのやりとりも活発で終始なごやかな雰囲気のなかで解説会は進んでいった。途中、上野"初段"を聞き手に環那"四段"が解説するという企画もあり、環那嬢の緊張と人一倍の努力姿(そして上野氏のわからない"ふり")がなんとも云えない温か味を漂わせる。やはり、解説会はいいですなぁ。

将棋のほうは羽生王将の巧みな駒捌き(という云い方であってるのだろうか)で、一気呵成に佐藤棋聖を投了に追い込んだ。はぁ、と溜め息はできるほどの強さ。怖ろしい。途中で、勝又五段(会館でいつも見かけます)と三浦八段がゲストで登場し場がますます活況を呈するなか、無事、解説会は終了。

環那嬢は休憩時間や解説会終了後にひとりひとりのお客さんに笑顔で挨拶をしてくれてほんと恐縮するほどでありました。その前日に女流名人位戦の予選で勝利をおさめ、あと一勝すればB級リーグ入りするので是非とも頑張っていただきたい。

上野四段は、前回のC級2組順位戦でも見事快勝し、昇級へあと一歩のところまで来ているので、最終戦を期待しております。各級順位戦も佳境に入っているので、まだまだ将棋界から目が離せない。

     *               *              *

先週は映画も一本観てきた。ソフィア・コッポラ監督作品の『マリー・アントワネット』。フランシス・コッポラの娘ですね、確か。で、映画自体は・・・・・・。

私が観た映画のなかで、『キング・アーサー』に次ぐ、つまらなさ。最初から何のドラマも起きず、印象的なシーンは皆無で、最後に処刑台へ運ばれるシーンにどんな趣向を凝らすか期待していたら驚くほど何にもなし。何を描きたかったのかがさっぱりわからない、駄作。ソフィアには『ロスト・イン・トランスレーション』という監督作品があり、そちらは結構評判がよさそうなのだが、はたしてどうだろう。いやむしろ、『マリー』の悪夢を打ち消すために、『ロスト』をこそ観てみたくなった。
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# by le-moraliste | 2007-02-12 14:23 | メモ
A級順位戦――将棋界最高の名誉と誉れ高き名人位の挑戦者を争うこのリーグ戦は、ファンであればけして見逃せない対局。将棋を全く指さない私ではあるが、将棋界のファンであることについては人後に落ちないつもりであるからして、今年も佳境に入った順位戦から目が離せない。

過日、そのA級順位戦の8回戦が一斉に行なわれた。森内名人の挑戦者は一体誰になるのかが早くも決まりそうな状況で迎えたこの日、私は、仕事を休んでまで、東京将棋会館で行なわれる順位戦大盤解説会に参加してしまった。将棋の解説会に行くなんて初めてだったのだが。

昼過ぎに会館で整理券を受け取ってから一旦周辺をぶらついて、午後6時の開場に合わせて入場することに。初めて訪れた東京将棋会館の意外な狭さに驚きを隠せない。一般客が入ることのできるスペースとしては、1階と2階に売店と道場(及び研修室)しかなく、ここが日本の将棋の元締めだとはにわかに信じがたい。

解説会には渡辺竜王と屋敷九段が登場するけれども、運がよければもっと多くのプロ棋士を目撃できるかもしれないと期待していたら、午後会館に着いた早々、森内名人と島八段に遭遇。意表をつく名人の身体の大きさと、同じく意表をついた島八段の身体の小ささに言葉もでない。さらに、顔は見た覚えがあるなぁと動き回る姿を見て名前は思い出せなかったが帰宅後に確認したらその人は勝又五段であった。

2階の研修室ではすでに指導対局が行なわれており、いきなり渡辺竜王の姿が目に入った。あの若さですでに風格あり。他に安食女流と北尾女流も指導対局をしていた。残念ながら島井女流は体調不良のため、本日の指導対局をお休み。プロ棋士と将棋を指すことのできる指導対局のサービス度に改めて驚く。実は結構すごいことではないのか。

午後7時になって、いよいよ渡辺竜王と屋敷九段の解説会が開始。将棋がわからない私でも愉しめる、わかりやすくも高度な内容で、次々とそれぞれの対局内容を片付けていく。順位戦は通常、夜中1時くらいに対局が終わるため、まだまだこの時間では駒の進みが遅い。もちろん、今日は終局までここに居座るつもりである。

途中、休憩を何度かはさみつつ、解説会は滞りなく進んでいく。本日の眼目は、郷田九段と阿部八段、谷川九段と羽生三冠のそれぞれの対局。どちらも関西将棋会館での対局であったため、こちらはさほどの慌しさを感じさせない。おそらく、関西のほうではメディアの人とかが結構いたりするのだろう。けれど、解説会に参加する人たちの盛り上がりはここでも熱く感じられる。参加者はほとんど年配の人たちなのだが。

解説会には途中、ゲストとして何人かの棋士が訪れた。順不同だけど思い出せる限りでは、遠山四段、上野四段、佐藤天彦四段、千葉五段。たぶんこれで全部だと思う。アマヒコ四段の解説を聞くことができたのが予想外の収穫。ついに四段昇段を果たしたアマヒコ氏にこれからも期待している。

後で確認したところでは、東京将棋会館の棋士控室ではあの先崎八段(らしき姿)や千葉女流らも検討に参加していたようだ。先ちゃんには少しでも会いたかったと悔やまれる。対局終了後に対局者が解説会にひょっこり登場してくれるかもと期待もしていたが、それはなかった。

順位戦のほうは、郷田九段が勝ち、谷川九段が負けたので、早くも名人挑戦者が決定した。郷田九段がはたして森内名人にどう立ち向かうのか注目である。

解説会については、やはり渡辺竜王の解説が面白かった。話もなかなか上手い。屋敷九段は控えめに、竜王をたてているような姿勢であった。人柄がよさそうだ。手順の速い進行についていけないこと多々あったけれど、素人でも愉しめる、見所豊富な解説会であった。

最後の対局が終わったのが午前1時半頃。それに合わせて、解説会も終了。帰宅は午前2時半であった。
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# by le-moraliste | 2007-02-04 07:00 | メモ
仕事帰りに寄ったコンビニでいつものように雑誌の棚を右から左へざっと目をやると、一面ピンクのどぎつい雑誌に視線がとまる。よく見れば『週刊文春』の最新号(2月1日号)で、(忘れていたけど)今日が発売日のはずなのに、もう残り一冊しかなかった。

昨日か一昨日にネットのニュースで読んだけれど、文教堂が集計した週刊誌の販売数ランキングでは『週刊少年ジャンプ』に次いで2位の部数を稼ぎだした『週刊文春』(『週刊新潮』は4位。これもすごいが)。書店での販売数なので売れ行きにはある種の傾向はあるだろうけど、確かに文春はずっと読んでいて面白い雑誌である(文春歴10年。その前に『週刊朝日』歴1年)。その面白さを伝えるためには――。

コンビニを出てから早速飯屋でページをめくりはじめる。普段は先崎学プロ棋士のエッセイ→渡辺敏史「カーナベ」→坪内祐三「文庫本を狙え!」と直線的に読むのだが今日は違った。なんとなく冒頭のグラビアページをパラパラ眺めていったら、目に飛び込んできたのが「角川春樹」の姿。木刀を手に持ち、畳の上で正座する和服姿の角川春樹。久しぶりに見たそのシルエットは、威厳というものではなく、少し痩せたような、意外な薄さを感じさせたが、よくよく顔をじっくり見てみれば迫力もなきにしはあらず。

それより、本文がすごい。思わずのけぞって、ひとりで笑ってしまったぐらいだった。可笑しいから笑うのではなく、この人の尋常じゃない生命力とでも云おうか、余人にはその背中すら見えないだろう恐るべき意志をまざまざと見せつけられたから。
近頃、自分の体力の限界が見えないんだ。朝は九階にあるこの部屋まで階段を三十五往復して、腕立て伏せを百回。その後、バルコニーで木刀を五千回振っている。仕事がなければいつまでだって続けていられる。
アスリートでも格闘家でもない文人なのに。でも文人であるからこそ、「そこ(畳)に正座し、三十分ほど祝詞をあげるのが日課」(地の文)というのが、らしい。でも祝詞って。さらに、脳細胞が覚醒云々という話が続くのだが、その結果、このような境地に立ったらしいのだ。
このままいくとおれは、人間の領域を超えるんじゃないかな。
既に超えているのでは、と思うのが普通だが、今の自分がまだ通過点にしかすぎないらしいことが角川春樹の言葉から伺えるので、きっと、もっとすごい意志を持つまでに至るのだろう。是非、そのときの、春樹の言葉が聞きたい。
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# by le-moraliste | 2007-01-25 23:32 | 雑誌
仕事帰りに馴染みの古本屋に寄った。普通の、マンガが半分を占める、とりたてて安くはない古本屋なのだけれど、店内に入ると必ず古本を買ってしまう。特別欲しい本というわけでもないのに。

昨日購入したのは、保阪正康『昭和天皇』(中央公論新社)で(そう云えば"新"になる前のこの出版社も受けたのが思い出される。面接で蹴飛ばされたが)、定価の半額という割高なお値段。それでも、昭和天皇への関心は近頃とみに高まっているため、迷わずレジに持っていってしまった。

元々は明治天皇と大正天皇にこそ興味をそそられていたが、原武史・保阪正康『対論 昭和天皇』(文春新書)をかつて読んだときに、それまでの私的昭和天皇観を覆すような内容がべらぼうに面白かった。また福田和也も昭和天皇伝を連載中であるし、同じ保阪氏による昭和天皇伝を改めて読みたいと思ったわけである。

帰宅後に早速ページをめくり、時間の関係から長くは読めなかったけれど、つい、プロローグとエピローグをだけ読んでしまった悪い癖。その2章は昭和天皇の崩御前後の話だったのでそうなったとも云えるが、読みながら、子供の頃、テレビが一斉に沈鬱な放送を流していたことを懐かしく思った。当時は新聞なぞ読まなかったから(小学生時代)、初めて知る事実が多く(断片的事実は断片的に知ってはいたものの)、とても感慨深いものになった。昭和の終わりは冷戦の終わりとも重なるわけで、その歴史的意義の大きさを本を読んだだけでも実感する。

昭和の最後を間近で経験した医師団の人々の言葉が強く印象に残った。面倒なので引用しないけれど。
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# by le-moraliste | 2007-01-18 21:19 |
背景画像変更、できた。

「イメージアップロード」をしないといけないとは・・・。(参照
役所みたいに融通がきかん。

ちなみにPhotoshopで加工しました。
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# by le-moraliste | 2007-01-15 23:50 | 独白
むぅ・・・ブログの背景画像の変更ができない・・・。
CSSの知識は大丈夫のはずだが。

今日、昼間にコンビニに行くと、『文藝春秋』の最新刊が置いてあったので購入。そして、(会社で)すぐ読み始めた。

目次をざっと眺めてまず読みたくなった坪内祐三『「非凡の人」 菊池寛の新しさ』から(いやその前に同じ坪内「人声天語」を読んだけど、あまりに力の入っていない文章だった。無論、それはそれでいいのだが)。

それは一種の日本近代出版史で、菊池寛(私はあくまでも"きくちかん"と読む)が『文藝春秋』を創刊したところからそれが日本を代表する総合雑誌となるまでの薀蓄交じりの好エッセイ。そう、『文藝春秋』はその出立からエッセイ(随筆)を基本とした新しい雑誌だったのだ。と実感するね。

当時の文壇一の小説家でありながら実業家としてもの成功もおさめた菊池寛の人生はつとに有名だが、坪内氏の文章から『文藝時代』という新創刊雑誌との軋轢など知らなかった事実も知れて、菊池寛への関心が再び呼び起こされる。そう云えば、菊池の『話の屑籠と半自叙伝』という本をいつか古本屋で手に入れて、その前からずっと欲しかったから(なんで欲しかったのかは今や不明)すぐに読み始めたけれど、どういうわけか、最後まで読み終わらずにどこかに置いてあるはずだ、と。

確かに(坪内祐三が書いているように)『話の屑籠』は読んでとても面白いエッセイで、毎夜夢中で読んでいたのに。今度、部屋を探して続きを読み始めよう。

ところで『文藝春秋』ではだいぶ前から福田和也の『昭和天皇』が連載されているが、まだ一度も読んでいない気がする。『諸君!』連載の石原莞爾伝がそうだったように単行本になってから読むつもりなのだろうか、自分。連載は当分終わりそうにないのに。

そんなこんなで三島の『奔馬』の続きを、今日も読んで就寝いたします。
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# by le-moraliste | 2007-01-15 23:08 | 雑誌
昨日、部屋の片付けをささやかに誓って、早速仕事帰りにいくつかのアイテムを購入。普段ではありえない9時頃の帰宅が叶ったから可能になった買い物で、近くの無印良品に立ち寄り、収納グッズを買えたことは大きな一歩であった。バラバラに放擲されているモノを片付けるには、そのモノを収めるハコが必要である。そんな当たり前の事実に従順になることによって、結構、それまで窮屈だった視界が鮮やかに見えてくるものだ。そして――次に立ちはだかる問題は、行動。モノをハコの中に、律儀に並べるという行動を、今日、これから、はたして、とることができるか。ゆっくりでいいから、がんばってみよう。

昨晩は布団に包まれながら、まず村田晃嗣『プレイバック1980年代』を読了。文化史ではなく政治・外交を中心とした年代論であり、しかも羅列気味の文章が物足りなくもあったけれど、必要な部分は網羅しているようであるし所々読み応えのある箇所もあるにはあったので、索引として、あるいは整理の物差として、今後結構使えそうな本である。

このところ年代論の本を買うことが多く、中でも1980年代の現代思想、政治的潮流、文化史の本はなかなか面白い。それは、1980年代が歴史として固まってきたことを体感させ、その先に、もうすぐ「現在」とバランスのとれた1990年代論が登場するであろうことを予感させる。戦後に限っても、経済国家としての再出発と冷戦の始まりの1950年代論、革命と挫折の1960年代論、サブカルチャーの社会化としての1970年代論、そしてバブルと冷戦終結の1980年代論――それぞれが魅力的な物語になりえよう。その先の1990年代はいかにして位置づけられるだろうか。

村田本はすぐ読み終えたので、三島『春の雪』を読み始める。結末を知りたくて、結局最後まで読んでしまった午前3時。あぁ・・・。感想など野暮なことは書くのをやめよう。そんなことより、今日から『奔馬』を読めるということが、何か、こう、いま、生きることの愉しさになっている孤独。結構、いいものじゃないかと、思う。
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# by le-moraliste | 2007-01-09 22:48 |
偶には書かないと。

年末に「そうだ、三島由紀夫を読もう」とふと思いついたのがきっかけで、実家で過ごした年末年始に『春の雪 豊饒の海(一)』を読み始めた。別に映画化されたから読んでいるのではありません(でもしかし、映画版の評価は低いようだけどそれは観ないわけにはいかない。だって映画だから)。

その前、三島を何年ぶりかに自分の頭に甦らせたところの三島自身のある言葉を偶然読んだのがそもそもの出来事。孫引き。出典不明。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるようなウソを除いては、大目に見る。子供のウソは、子供の夢と結びついているからである。
三島らしい文学的な言葉で、よくよく考えてみれば「夢」とつながる子供の「ウソ」に出会うことは少ないだろう。ある種の性善説が言葉の隙間から見えなくもない。けれど、その表現は見事である。文脈によっては(むしろこの部分だけを切り取ってみれば)美しい言葉になりうるものだ。子供が何かを隠そうとするとき、それを、大人の論理で片付けてはいけない場合がある。

それはともかく、『豊饒の海』四部作を読みたいと思う。いつものように遅々として進まないが、早く読み終えたい。現時点では第一部の最終盤あたりなのだけど、三島の饒舌だが晦渋な日本語の世界はいつもより控えめに感傷的、いつもよりもっと哲学的で、どうやら四部作に通じるテーマが輪廻転生であるらしいを知って(いや、知らなくはなかったが)、だいぶ以前に読んだ島田雅彦の『無限カノン』三部作がこの長編を参考にしていたのだなとようやく気づいたりもし(その三部作の第一部『彗星の住人』が先月文庫化されていたことを思い出す)、つまりは三島が最後の作品にどんな言葉を込めていたのかをようやく知ることができるだろうという期待が、本の1ページ1ページをめくるにつれて高まっていくのが、自分として嬉しい。

これで今同時に読んでいる本は何冊になっただろう。井上章一『夢と魅惑の全体主義』は昨日読み終えたばかりだけれど、村田晃嗣『プレイバック1980年代』と(部屋のどこに置いたのかすら覚えていない)粕谷一希『作家が死ぬと時代が変わる』、鐸木能光『デジカメ写真は撮ったまま使うな! ガバッと撮ってサクッと直す』、薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』(これも部屋を見回してもどこにあるのかわからない)。こんな感じだろうか。村田氏の本はもう読み終えるし、デジカメ写真の本は実用書だから拾い読みで十分。書きながら思い出したけどずいぶん探していた『東京R不動産』を先日渋谷のブックファーストで買ったから、それもすぐに読みたい。(と並べ続ければ、きりがないので中断。)また思い出したので追記。太宰治の『晩年』をも読んでいた。上着の内ポケットにずっと仕舞いっぱなしにかれこれ1年近くそこにあるもので、思い出したようにときどき読み進めているだけだから、まだ半分ちょいしか読み終わってなかろうと思われる。そうだ、太宰も、なぜか、読んでいたのだった。

要するに無茶苦茶な読書生活なわけで、仕事が始まれば時間が限られるだろうから、さてどうなるのだろう。(そう云えば雑誌『en-taxi』がA4版にリニューアルされたのも思い出した。その最新号の坪内祐三の評論は面白かった。村上春樹と小島信夫と大江健三郎、そしてフィッツジェラルドを詰め合わせた何か示唆的な一文。とまた脱線するわけで。)自分にとって良い生活を送るためには、何度も自分に云い聞かせている部屋の掃除が何よりも肝心である。引越しをしたい、引越しをしないともう収拾がつかないほどに荒れた住まいは、なにか、生活のすべてを毀しているのではないだろうかとようやくわかりはじめてきた。

勉強もしたい。WEB制作や写真補正の勉強、英語の勉強、政治の勉強、哲学の再検討などなど。でも、時間がないや。と諦めていては旧に復するので、今年は何とかするつもりである。(2007.1.16.一部修正)
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# by le-moraliste | 2007-01-09 00:06 |
久方ぶりに早めに自宅に帰った土曜の夜(と云っても11時すぎていたが)、どこかへ車で出かけたいと思いそれも東京方面へとなんとなく考えていたら、「青山ブックセンター六本木店」のことを思い出した。家を出るのは深夜1時を過ぎるのでこの時間に空いている店と云えば、ここしか思い当たらない。初めは別になにか特定の店に行きたいというわけではなかったのだけれど(最初は港にでも船を見に行こうかと思っていたぐらいだった)、ともかく本屋に入りたいという云うに云われぬ瞬間的な動機もあった。青山ブックセンターが倒産(?)というニュースを知ってからは一度も行っていないし(前回入ったのは5年以上前だと思う)、最近湧いてきたデザイン系の興味からそういった本も欲しかったのだ。あそこなら、いい本を目にすることができるだろう。

というわけで、夜1時過ぎに出発。車の少ない下道をちょっと速度をだしながら(懐かしの上野入谷にちょっと立ち寄りつつ)、3時前に到着。どぎついネオンと溢れる外国人たちが見えだしたら、なつかしの六本木である。何重にもなって停めてあるタクシーにイラつきながら車をどこかに停めようとキョロキョロしてみれば、恐るべき文字を発見。昼間10分100円、夜15分200円というパーキングの掲示。夜の方が高いんかい・・・。他の車たちにならって、路駐することとあいなりました。

地図で(まだカーナビはついていない)青山ブックセンターの位置を確認していたので、結構遠いところに車を停めたのだけれど無事、それらしき本屋を見つけた。それらしき、というのは以前とは全く外観が違っていたのである。なんかガラス張りのお店になっていた(昔からなのだろうか、覚えていない)。表にはペーパーバックが置かれたラックがあっていくつかの洋書を眺めてから店内に侵入し、ようやく辿りついた青山ブックセンター。

お店に入ってすぐ左側にあるデザイン系の本からまず物色。ロシア・アヴァンギャルドの本があってすごく欲しかったけれど、とりあえずは別の棚に移動。WEB関係の本を丁寧に選別しながら雑誌棚で見つけたのが『en-taxi』の最新刊。驚いた。判型が大きくなっていたのである。しかも、9月末の発行ということだからだいぶ前にでていたようで、全く知らなかった私は唖然。

そうして次々に棚を眺めていって結局5冊の本・雑誌を購入。ここでしか見つけられない本(たぶんそういう本があるはず)を購入したわけではなく、それなりの本屋ならどこでも手に入りそうなものばかりだったのだが、それでもあの空間を味わえたこと、それだけで満足であった。定期的に寄るきっかけを作れたから。

話は遡って車を停めたところから本屋までの途中に、新たなビル群が建ちつつあるのに出会った。「Tokyo Midtown」。名前はアレだが、防衛庁庁舎跡地に設けられたそれらは、また東京の不気味な空間を形作るポイントとなるのだろう。とりあえず設計者の名前をメモして(日建設計・中村光男)外観を一瞥するだけで通り過ぎた。デジカメを持ってくればよかったと後悔しつつ(一応、建築屋の仲間だし)。あ、その前に新しいデジカメを買わないと。そうして、そんな充実した半日を過ごすことができた。帰宅は午前5時半。

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最後に最近読んだ本について。有名になりすぎて読む前に内容を知りすぎたために(こういうことは結構ある)読みそびれた、関岡英之『拒否できない日本』(文春新書)。発行からもう2年も経っているのだなぁと感慨にふけりつつ読み終えた。やっぱり書かれている内容は大雑把だけれど知っていたのだが、それでも冒頭の建築士の資格基準についての話は面白かった。

最も読みごたえがあったのは英米法と大陸法の違いについて。判例法としての英米法と、日本も採用している制定法としての大陸法と、その内実の差異は昔からの関心の対象だった。そのあたり、もっと深く勉強してみたい。

ところで、大学時代の先生がおっしゃってたことだが、関岡氏が保守反米グループに取り込まれている現状が、ちょっと心配である。
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# by le-moraliste | 2006-11-19 18:16 |
日垣隆は好き嫌いの激しい部類の評論家と云えるだろう。人はその原理主義的なリアリズムに深みを感じないかもしれない。あるいは実践を伴ったそれがむしろ、結構な爽快感を感じさせることに感心する人も少なくないはずである。

彼を売文家と云えなくもないだろう。だが相応の背景なくしてはあれほどの多岐に亘る言葉を重ねることはそうできることではない。いや、その多岐にこそ、浅さを見出す人がいるかもしれない。

いずれにせよ、日垣隆という人の書く文章を、私は結構評価している。評価するに足る勉強量のみならず、隠されたものを見る批評眼も十分に備えているのではないかと思う。時に安易な文章を書くことも確かにはある。しかし、それを安易という言葉だけでは片付けられない何かがあることを、私は感じずにはいられないのである。

『週刊文春』11月9日号に掲載された彼の文章「父親になにができるか/子供をいじめで死なせない方法」。そのタイトルは彼がつけたものではないかもしれないけれど、そしてそれがまさに平凡を表現していると思わせるところ、そこに彼のネガティヴを見出す人もいるのだろうが、でも、実際に読んでみれば、それはなかなかに鋭いところがあるのだ。(でもここにある「鋭さ」は、実は結構な数の人たちにはわかっていることであると私は思う。にもかかわらず、この世相のもとで、そう実直に語れること。それを私は評価したい。)
日本だけで毎年三万人を超える自殺者には、それぞれ幾つもの誘因がある。断言できることなど、滅多にない。/それでも二つだけ、明言できそうなこがある。/第一に、自殺は「コップの水があふれるようにしてなされる」という点だ。
(中略)
一割しか水が入っていなければ、最愛の人が急逝しても後追い自殺をしようとは思わない。九割五分まで水が満ちていれば、友達が挨拶をしてくれなかっただけで自殺を思う。
(後略)
この一文は本文全体のささやかな一部でしかない。それでも、私が注目したのは、まさしく、この指摘こそ、様々な自殺の原因にまつわる(もっと云えば、人生そのものに深く関わる)大人たちが理解しえない(理解しようとしない)真実だからである。

この文章の結論については特別わざわざ書き記すことではないのだが、この一文だけは、記録にとどめたい。この人間の不甲斐なさ、脆さ。これこそ、私たちが知るべき、人間の本質の逆説的な深さなのである。
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# by le-moraliste | 2006-11-14 01:20 | 雑誌