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by le-moraliste
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大平明と東京電力

同じく佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んでのメモランダム。

【大平明】
その聞きなれない苗字が暗示するように、元首相・大平正芳の子息。「東電OL」と同じ職場で働いていたことのあるこの三男は、現在、大正製薬の代表取締役副社長の責にあるとか。東京電力から大正製薬へ移籍した経緯はわからないが、意外なところで意外な名前を目にしたもんである。

ここで気になることが一点。佐野氏によれば、「東電OL」の父親が東京電力の重役を務めている最中、志半ばで命を亡くしたことを契機として「東電OL」本人が東京電力に仕事を求めたらしいのだが、彼女の妹も東京電力に勤めている事実と合わせ、創業者一族でも大株主でもない親子三人がひとつの大企業に(同時期ではないが)在籍することに違和感を感じないわけにはいかない。しかもそこに、元首相の三男という名を添えてみれば。

「東電OL」、彼女自身は優秀な人物であったようであるし、大平正芳も元大蔵官僚上がりの政治家だからその子供もおそらく才に恵まれているのだろう。けれども、親子三人というのは、はっきりいって異常であるとしか云えない。

※訂正
私の誤読で「東電OL」の妹も東京電力に勤めていると書いてしまったが、違った。大手電器メーカーに勤務しているらしい。

ということで、「親子三人」という指摘は完全な間違い。失礼しました。

昨夜、ようやく本書を読み終えて、最後のほうにこんなことが書かれていた。彼女は父親の元部下の口利きで東京電力に入社した、という。結論としては、結局、同じであるということは変わらないようだ。

最後に本書を読み終えて。著者が云うように、世の中の「小堕落」を嘲笑うかのような彼女の「大堕落」、坂口安吾の『堕落論』を地で行くような堕ちるところまで堕ちていく姿は、私たちを惹き付けてやまないだろう。

大学時代に尊敬してやまない父親を失った彼女の喪失感、それもまた、私には無縁ではない、ある種の関心を目覚めさせる。(記2007.5.31)
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ここでひとつ、佐野氏の文章の中で、印象的なものをひとつ引用。
匿名のAが、匿名のBを殺害することなど絶対にあり得ない。/彼らは被害者も加害者も匿名化することで、犯罪にまつわるすぐれて人間的な部分を、すべてそぎ落としてしまう。私には、それこそ人間存在そのものを冒瀆する「犯罪」のようにみえる。
文中の「彼ら」とは、被害者のみならず加害者のプライバシーの保護をしつこく掲げるいわゆる人権派の人々、さらには被害者・加害者を形式的な図式(人間像)に当てはめ断罪しようとする検察官たちのことを指している。被害者・加害者のプライバシーを守ることに一意あるのは当然であるとしても、それは事件そのものの中身を覆い隠すことに他ならない。もし、私たちが、この社会で生まれる数多くの事件の真実を知りたいと思うのであれば、プライバシーの暴露は欠くことのできない。知るべきか、知らざるべきか―それが問題である。
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# by le-moraliste | 2007-05-27 23:59 |

鮎川義介、高碕達之介

佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んでいてのメモ。

【鮎川義介】
戦前に「満州の政商」と云われた日産コンツェルンの創設者。過日、その孫・純太氏が女優・杉田かおるとの結婚問題で話題になった鮎川家であるが、現在は日産自動車とはどんな関係があるのだろう。

【高碕達之助】
満州時代、その鮎川義介の片腕として働き、戦後は電源開発株式会社の初代総裁を務めた人物。高碕は東電OL殺人事件と遠い関係にある岐阜県の御母衣ダムを作ったという。

【電源開発株式会社】
1952年に設立された国の特殊会社。

御母衣ダム建設に伴い移住を余儀なくされた住民たちの一部が、渋谷の円山町に集まり、そこで旅館やホテル業に携わったことと、この円山町で売春を続けた東電OLとに、つながりがあるわけである。

鮎川義介について、昨日読んだ本か雑誌か新聞かにその名前があったので、しかしそれがどこかにか思い出せず、とりあえずここにメモした次第。
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# by le-moraliste | 2007-05-26 04:40 |
新聞の読書欄を読んでいたら、こんな一文に出会った。
星新一が台湾の阿片利権を手にして大正時代に隆盛した大企業・星製薬の御曹司であり、森鴎外の姪の息子であることはよく知られている。(『産経新聞』2007年5月20日)
全然知らなかった。「御曹司」であることも、「森鴎外の姪の息子」であることも、全く知らなかった。知らないのは星新一の本を一冊も読んでないからかもしれないけれど、それでも森鴎外つながりで知りえるはずの情報だと思うのだが、鴎外の『渋江抽斎』を読むほどの私でも知らないっちゃあ、知らないか。

調べてみると、森鴎外の妹が小金井喜美子で、その娘の息子が星新一だとか。つまり、星新一からみれば、森鴎外は大伯父にあたるようだ。この小金井喜美子という女性もまた、有名な人らしい。明治期の著名な翻訳家、随筆家、歌人と書かれている。兄鴎外についての著作もあるようなので、これも注目である。

同じように気になったのが、星製薬のこと。ネットで検索してみても星製薬のサイトは見つからず、合併だか会社分割だかの断片情報しか手に入れられなかったので不明であるが、現在は存在していないようだ。それより、阿片の利権云々というところで思い出させる人物がもうひとりいる。同じく阿片を手段に旧満州帝国で暗躍した里見甫である。

佐野眞一『阿片王』という本でこの人物のことを知ったのだが、この本によれば里見は上海にも足を伸ばしていたはず。上海と台湾、距離はさほど離れていないのだから、同時代であることを考えてみれば、何らかの接点があったのではなかろうかと思わなくもない。『阿片王』には星新一の父・星一(星製薬創業者)のことについては触れられていなかったと思う。ちょっと、気になる。

余談――
ここ何回かの『週刊文春』がおかしい。今までは発見することさえ困難だった誤植や、下手な文章が散見されるのである。記事を新人が書いたからなのかもしれないが、チェックする人は必ずいるはずで、そのチェックが急に甘くなった印象を受ける。しばらく様子を見てみよう。
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# by le-moraliste | 2007-05-22 00:36 | 新聞・ニュース
古いCDを引っ張り出して、なぜかDVDデッキで再生しながら読書なりネットなりをする最近(CDオーディオが壊れてウン年なのだ)。発売同時はさほどよくないと思ってそれから全く聴かないでいたDreamTheater『Falling Into Infinity』というアルバムを偶然DVDデッキでかけてみたら、これが意外なほどいい曲ばかりですっかり毎日再生しつづけている。普段、見向きもしないアルバムをたまには再生して生き返らせてみるのも面白いかもしれない。

今月読んだ本をとりあえずまとめ。まず有島武郎『小さき者へ/生まれ出づる悩み』(新潮文庫)。母親を失った自分の子どもたちへおくる手紙という形で有島の優しい言葉が綴られる「小さき者へ」と、(実在したのかどうかよくわからないが)有島が昔出会った、漁師を生業とする画家志望のある青年の生活を小説に仕立てた「生まれいづる悩み」という両編。

有島の小説は私小説的だと云われるらしいけれども、たしかにこれら短編は有島個人を表に出した、私的な文章であろう。そして、有島の文章はとても美しい。と、ここでもう内容を書く気にはなれず、ただ、解説の本多秋伍の文章のひどさだけ記す。何を云いたいのかさっぱりわからないほど、ひどい。主役が有島ではなく本多となってい、本多がただ自分のことを語りたいだけの文章である。

もう一冊読んだものが木全賢『デザインにひそむ<美しさ>の法則』(ソフトバンク新書)。ソフトバンク新書というそれ自体困難に陥っていそうな新書であるが、簡潔にデザインの法則を紹介しているので読んでみた。黄金比、三分割法、白銀比、ピクトグラム、シンメトリーの安定性、対応付け、アフォーダンス、角アール、面取り、ハマグリ締めなどなどが参考になったけども、それ以上のものは何もない。モダンデザイン、インターナショナルデザイン、ユニバーサルデザインという流れも本来は面白いはずの潮流なのだろうけれど、著者にかかればあまり関心を誘わないタームとなってしまう。問題は本書の体裁にあるかもしれないが、なんら深みのない新書であった。(最近の新書の充実ぶりからすればかなり期待はずれである。)

で、いま熱心に読んでいるのが鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)。私は本を読むときいつもカバーをはずして真っ裸にして読む習慣があって、本書も例外なくカバーをはずしてみれば、全体が惜しげもなくピンクとなっていた。それはちょっと・・・。

現在半分ぐらい読んだところだが、なかなか面白そうである。ネットを中心とした若者の「祭り」現象(つまり、何でもかんでも盛り上がりたい癖)を分析しながら団塊の世代にはとても書けない若者論(なのかな?)を書いているようなので期待して読み進んでいるが、最初がニート問題を扱っていてわかりにくい文章のせいもありちょっとつまらない。これから大いに盛り上がっていくことを楽しみにしたい。
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# by le-moraliste | 2007-03-30 02:39 |

自由の棘

写真のアップロードをほぼ諦めて、本を読んでみよう(四六時中何かの本を読んではいるけど)。

何年ぶりかに読み返す福田恆存『人間・この劇的なるもの』(中公文庫)。私が最も影響を受けた本であり、かつまた最も読み応えのある評論。赤線だらけの文庫本を紐解けば、思い出される福田恆存の文章が厳しく自分に迫ってくる。

「愛憎は裏切られ、憎しみは調停され、悲しみはまぎらされ、喜びは邪魔される。相手がなければ愛情も起こらぬが、相手があるがゆえに、愛憎は完成されない」、そんないらだたしい日常生活を送ることに諦めに近い思惑を擁きながら、密かにその諦めさえも「行けるところまで行きつくことを望んでいる」このどうしようもない人間というもの。

本質的に自由でありたいがために、「自己の宿命のうちにあるという自覚」を掴みとろうとする不思議な生態。しかるべく到達した現実を味わうために、私たちは自由を一度捨てておいて、その捨てた自由を今一度拾い、その棘のある感触に恐る恐る痛みを感じるのだ。

「限りない自己弁護」は止むことを知らないが、この痛みこそは現実なのである。「ちょうど画家が素描において、一本の正確な線を求めるために、何本も不正確な線を引かねばならぬように」、自己弁護の螺旋をくぐりぬけながら私たちはいつまでも、死の瞬間が訪れるまで、自由の棘を作り続けるのだ。

適当に書いたが、最後の「画家が素描において…」の一文は、忘れられない文章である。「一本の正確な線」とはあまりに狭くて不自由なものに思えるが、実はこの一本の線こそが自由を実感させるなんて、悲しいことだろうか。それとも喜ぶべきことだろうか。
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# by le-moraliste | 2007-03-13 05:25 |

早春の梅の花

700万画素の多少いいデジカメを購入しているのだから、写真もアップしてみよう。

花の写真を撮る趣味は本来ないのだけれど、街中を歩いているとき、無意識に何かを眺めるのは誰でもあることで、とりわけ美しいものに目を捕らわれるはごく自然な姿勢だと思う。だからと云って、その美しさを写真におさめようというのは、意識的な、自覚的な行為である。

意識が作用しはじめるのは、そこに何かの必然性を取り入れたくなるからだ。例えばこの場合、写真を撮り、その撮った写真を誰かに見せ、相手の関心を惹こうという筋書きが見えてくる。自分が鑑賞するためだけに写真を撮ると云う人も、その実は、花の写真を鑑賞する自己の美しさをひそかに味わい、次の何かを期待していることだろう。その″何か″は、写真を撮ることから必然的に導き出される(と当人が考える)成果を疑いなく指している。写真を撮るということは、意識が淫らに露呈する恥ずべき行為かもしれない。……

2月中旬を過ぎた頃のとある公園。暖かすぎて既に満開となった梅の花を撮ってみる。花の写真を撮ったことはないので初めての挑戦だが、接近した写真の方は結構綺麗に写っているように思われる。全体を撮った写真は多少ボケでいるようだ。どちらも補正は一切かけていない。今後いろいろ試してみよう。

・・・・・・って、全然アップロードがでけへんがな。このポンコツブログめ。(後でやってみる)
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# by le-moraliste | 2007-03-10 21:03 | メモ
良い噂は一度も耳にしたことのない黒川紀章だが、こんな才能も秘めているようだ。まったく知らなかった。
僕はいつも、明け方三時にこれ(日本刀)を抜いて、自宅近辺を走ってますよ。刀を抜いて着物で走るという″実戦″の訓練を昔からやっているんです(『週刊文春』3月8日号)
かの近藤勇が使用した(本人談)とされる日本刀を「日本文化デザイン会議」の場に持ち込んでしまった黒川氏が明かす、謎の日常。持ち込むことそれ自体には問題はなかったようなのだが、どこかで見たことのある、強い既視感を覚えずにはいられない黒川氏のこの″訓練″。

つまりは、角川春樹。以前にも紹介した角川氏の超絶した日常と完璧な類似性をもつ黒川氏の″訓練″は、角川春樹がそうであったように、黒川紀章本人の超越的人間性を伺わせるに十分である。氏が「人間の領域を超える」のも時間の問題であろう。(まもなく始まる都知事選挙戦で、その一端が知れるに違いない。)
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# by le-moraliste | 2007-03-05 03:49 | 雑誌
ほぼ5年ぶりに部屋を掃除中。もう、なにがなんだかわからない。9年前の書類とかも出てきて、もうわからないを通り越して呆然。

埃にまみれた本や雑誌、書類に憐憫の情を擁き、メモ用紙に書き散らしたメモをPCにファイルとして保存するのに膨大な時間をとられ、またあるいは古い紙切れ一枚に昔の思い出が呼び起こされたり、捨てるべきか捨てざるべきかを悩みながら結局捨てることにした(他人から見ればどうでもいい)一枚の紙に名残を惜しめば、書類の整理の仕方が全く見えてこないままとりあえずひとつひとつ片付けていく寡黙な作業。

それと同時に、ちょっとずつ機種を揃えてきた。PC用にプリンタ(Canon PIXUS PM960)と1GBメモリ(これで計1.5GB)、そしてWindowsを使っているにもかかわらずMacintosh用キーボードとそのために無駄になったUSBテンキー(失敗した)などなど。計7万円ぐらいはしただろうか。

キーボードを毎日扱う仕事をずっと続けているとどうしても感触のこだわりがでてきて、電器屋店頭でカタカタ試し打ちを繰り返すうちに、Mac用のキーボードがベストと判断。しかし、使用しているノートPCはWindows。互いにキー配列が結構異なるのだ。

いろいろネットで検索してみるとキーボード配列を操作できるアプリケーションがあるのを発見した。→Applekbwin。キー設定を自分の好みに変えられる、シンプルだけど便利な一品。おかげで迷いなく、Mac用キーボードを購入し、愛用しております。

メモリはPhotoshopCS2なんぞを使用していると512MBではとても足りず、ようやく意を決して購入してみた。1.5GBあると快適に動く動く。まぁ、つまりはMacのデスクトップを買えば一番いいのだろうが。(ノートでPhotoshopを操らねばならない哀しみはいかんともしがたい。)

そうして、そうこうしているうちに時間は情け容赦なく、過ぎていくのである。プリンタのスキャナーで遊んでいたら結構面白かった。OCRが結構便利かもしれない。英語はかなり正確に文字認識をしてくれるから、書類整理・作成に(使い方を誤らなければ)欠かせなくなるかも。
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# by le-moraliste | 2007-02-25 23:15 | 独白
今日は目白の美容室へ、いつもならちょうど一ヶ月間隔で通うところを今回は一ヵ月半ぐらいのスパンで向かった。相変わらず寝坊をしてしまい予約時間を変更してもらう大変失礼をおかしつつ(本当にごめんなさい)、無事さっぱりしたところで常のように池袋のリブロで本巡りをしよう。

と、店内に入るところで気になる掲示を見つけて、もしやとよくよく目を凝らしてみれば、やはり「古本市」。運よく開催期間中だったため何年ぶりかの池袋古本市へ当然直行したいのだけれど、その前に少し気分を落ち着かせたい気配もあって、まずは例にならってリブロの各階を散歩。新刊本・雑誌棚をひと通り一瞥したものの買いたいほどの本は見つからず、やはり急かす気持ちを抑えきれずに古本市へ突入することに。

時間を経た紙特有の匂いが充満する会場は、とても懐かしい気分がする。早速、溢れるばかりの古本(古書はないんだが)の荒野をじっくり駆け巡る。こんな本もあったなぁ、ほーこれも古本棚に並ぶようになったかと感慨深く、一冊一冊確認するでもなしに探してみたものの、たいした収穫はなさそうだ。古本市の開催期間の終盤にあたるためか、目ぼしい本はほとんど見当たらず。(価格を度外視すればいいものも中にはあるけどね。)

結局、入江相政の随筆集と保阪正康の瀬島龍三伝と、あとなんかの思想史の本を購入。しめて千円弱也。落胆。

満足するわけでもなかったのでリブロに立ち戻って、人文書の階を彷徨う。そこで一冊のとても気になる本を見つけた。クリントン・ロシターの『立憲独裁』。一見、対極に位置するように思える立憲主義と独裁政治とが意外に密接な関係を有していることを述べた本らしい。これは面白そうだ。

本書の内容とは関係のないところで笑えたのが、某氏による前書き。日本国憲法に″特別な″思い入れがあるのだろう。昨今の憲法論議の活発さは表現の自由ゆえに望ましいと書いておきながら、何か前提があるのだろう、ちょっと留保をつけているのが、らしい。曰く、「議論が偏っているきらいはあるが」。

云うまでもなく、この「偏り」とは護憲よりも改憲の議論が大勢を占めていること指す。あぁ、どうしてサヨクはいつもこうなんだろう。自分たちの議論の客観的説得力の欠損が今ここにある現実によって証明されている只中にあって、自己の反省へ向かうべき言葉の矛先を、あろうことか現実の方に向けてしまう彼らの恥ずべき無垢。改正することそのものを悪と前提としていなければ、「偏っている」などという意識は持ち得ないはず。研究は第一に現実によってこそその成果の可否を問われる宿命にあるのに(唯物論ではないけど)、いつまでも無垢を脱ぎ捨てる勇気が持てない日本のサヨクは、本当に恥ずかしい存在である。

こういう研究がある、そしてそれは評価すべきものだ、と感じるのであれば、まだ本文のページを開いていない無数の読者たちに対して、本文の「前」にこんな一文を挿入することの狡さを彼らは恥とは思わないのだろうか。それだけではない。本の帯(裏表紙だったかな)には、この某氏の「まえがき」からの一節が引かれていて、これまた曰く、「ロシターの分析や主張に必ずしも同意しなくとも、彼の問題提起には真摯に耳を傾ける必要があるように思う」。

まだ、ロシターの一文も読んでいない大方の読者へ、本の目立つところにこんな言葉を印刷するなんて。「同意」していないのがこの某氏自身だけであることの明白さ(だって読者はまだ読んでないから)、単なる紹介者のこの御仁の印象を未読の読者に向かって予め提示せしめる厚かましさ(そもそもロシターに失礼だろう)、そうすることによって読者の買う買わないという動機と、実際に買って読むときに読者の頭の一片にこの御仁の考えを刷り込まれることによる率直な読書と、その両方に悪影響を与えかねない編集者の独善。悲しむべきことである。

もっとも、サヨクの言辞に慣れすぎた私のような人間にとっては、尚のこと、サヨクが愛憎半ばする本書を読みたくなる動機に直結する不思議な効果を生み出すのであるが。(ただ5000円だったため、今回は泣く泣く購入を諦めた気分だけ勇ましい自分。)

そんな久しぶりのドラマを愉しみつつ、リブロ近くのラーメンを食べて(まずかった、失敗した)、帰宅。
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# by le-moraliste | 2007-02-19 00:03 |

三島か有島か

昼間、『春の雪』に続き『奔馬』を読み終えた。三島由紀夫。第一部より観念的すぎる小説だけど、切れ味は依然好調。引き続き『暁の寺』を読むために、それを今日買ってきた。のだが・・・。

懐忍ばせ用として読んでいた太宰治『晩年』を読み終えたので次はどんな小説を携えようかと自室の文庫棚をつらつら眺めてい、なぜかこれだと一冊の文庫を手にしたのが有島武郎『小さき者へ/生まれ出づる悩み』。夕食を摂りにいった居酒屋でちょっと読み始めたら、三島と全く異なる文体、物語世界にちょっと興奮。しかもそれが、私がお気に入りの欧米文学を彷彿とさせる、情感的でありながらもクールな文章だったからして、有島を先に読んでしまうかもしれない、家で。

有島武郎はもう何年も前に一連の文庫本を手に入れていたけれど、今の今まで読むことはなかった。なぜかは知らない。今回、場合によっては、『小さき者へ/生まれ出づる悩み』から真っ直ぐ『或る女』とか『惜しみなく愛は奪う』などを手にしてしまうかもしれない面白さを、有島の文学は持っているかもしれないと、今、思う。(一応、手に入れられる文庫本はすべて持っていたりするのだ。)
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# by le-moraliste | 2007-02-18 05:28 |