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by le-moraliste
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むかーしの雑誌を整理(つまり廃棄処分)をしていると思わず目次を開いて、誰が何を書いているのかを確認してしまう。貴重な文章はたいてい読んでいると思われるのだけど、もしかしたら読み逃しているのがあるのではないか、もう一度読んでみたくなる文章があるのではないかと、気になって仕方ないのである。

ということで、むかーしの雑誌を開いていたら、こんな文章を見つけた。当時はまだ東大の大学院生だった東浩紀「棲み分ける批評」『Voice』平成11年4月号)という書きもの。なんと、9年も前の文章である。

それを今読んで、はたしてどんな意味があるのかという疑問は、とりあえず読んでみたという事実によって、とりあえず解消される。なぜなら、結構面白かったから。内容が的を得ているかどうかは別として。

発売当時に読んだかどうかは覚えていないけど、読んだ以上は何か形に残しておきたい。そういう考えで、ここに要約を残しておこう。


*90年代の文芸批評は、アカデミズムとジャーナリズムの二極化が徹底された

*90年代のアカデミズムは高度に専門化し、社会的効力を喪失する一方で、ジャーナリズムは社会的効力を志向することで知的緊張を失った

*前者の代表者が浅田彰らポストモダニズム批評家、後者が福田和也

*だが両者は対立するというよりむしろ、棲み分けによる共存をはたしている。しかし、それゆえに、両者の対立は溶解不可能である

*その棲み分けは同時に、知的緊張と社会的緊張を併せ持つ批評が成立し得ない環境を生み出している

*かつて日本の批評を一手に担った小林秀雄は、メッセージの強度(つまり知的緊張)は、メディアとの相互応答(つまり社会的緊張)なしには健全でいられないと考え、西田幾多郎の哲学をなじった

*だが、90年代という時代は、批評の多様性にその特徴があり、まずはそれを素直に受容すべき

*なぜこの棲み分けが起きているか。その第一の原因は、ポストモダンであるがゆえである。70年代末にリオタールがこの言葉を用いたのは、特定の新たな文化的モードに注目するためではなく、むしろ逆に、複数のモードが混在し、どれもが支配的になることなく並立しつづける文化的状況の到来を警告するためだったからである。すなわち、90年代は、ポストモダニズムの徹底化に他ならない

*いまや特定のモードが文化的先端を僭称することはできない

*メッセージの「意味」は現在では共有されない。その共有をささえるはずの意味づけの機能そのものが、この社会では細分化され、機能不全に陥っているからだ。メッセージの意味ではなく、メッセージの伝達の事実性が重要となっている

*批評文の「意味」に固執するアカデミックな批評家は流通可能性を捨てざるをえないが、逆に流通可能性を重視するジャーナリスティックな批評家は「意味」を無視せざるをえない

*棲み分けの第二の原因は、かつての文芸批評が特権的に占めた「思考のための日本語」、小林秀雄の言う「健全」な日本語の場所が存在しないことである。思考と日本語が分離しているのである。

*それゆえ、現代における批評の条件は、思考のための新しい文体の創造である。

*小林秀雄ら戦後の文芸批評家は、思考と日本語の融和に成功していた(ように見えた)のだ

*しかしながら、90年代のこの環境においては、小林秀雄の実践は成立しえない(独断的にしか成立しない)

加藤典洋が典型で、加藤は日本の哲学に対する文芸の優位を主張しているが、批評の多様性の時代にあって、もはやそれは無効である

*加藤がとるべきは、古い文芸批評の語り口ではなく、アカデミズムとジャーナリズムを同時かつ横断的に説得できる別の新しい文体であるべきだった

            *              *              *

以上、要約終わり。積極的に引用しているが、いちいち指摘していない。

この文章の疑問点は、

1. 福田和也がジャーナリズムの世界にいるという認識ははたして正しいのかどうか

2.アカデミズムがジャーナリスティック的効果をもつことがそもそも正しいのかどうか

3.日本にアカデミズムは存在しているのかどうか

4.小林秀雄、福田恆存江藤淳、福田和也の系譜は社会的緊張及び知的緊張を保持していると思うがどうか

5.アカデミズムの左翼性が単に力を失って(たとえば国家の枠組みに依存しながら国家を所与のものとして考える思考ができない頑迷さ)、イデオロギー性のないアカデミズムが新たに登場してきていると云えるのではないか

6.ポストモダニズムが徹底した多様性の時代だとすれば、包括的な文体が登場しうるか、そもそも登場すべきなのか

なと。おしまい。これで心置きなく、この古雑誌を捨てられます。南無。
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# by le-moraliste | 2008-04-08 20:24 | 要約
午前中に図書館へ行くことが、最近愉しみである。

近所の図書館は狭くて本の数もわずかと、いいことなしずくめなのだけど、それでも趣くまま自由に本をとり、椅子に腰かけ本を読めるのは、格別の喜びがある。無分別な子供たちが賑やかでうるさく感じることがあっても、それもたいして気にならないくらいに落ち着ける。

何回か通えば、常連のようにご老人方が静かに読書している光景に慣れてくる。朝一番で図書館にやってきて、その日の新聞や当日発行された雑誌を中心に読んでいるようだ。おそらく、それが生活の大きな愉しみになっているのだろう。何を読んでいるんですか、と声をかけてはバチが当たりそうなほど溶け込み、自然である。

私も負けじと雑誌コーナーで面白そうな記事を物色していたら、文芸誌『新潮』で、福田和也「わが戦前――平成年間の感情、思想、文芸――」なる連載が掲載されているのを見つけた。こんな、タイトルだけで面白そうな連載が進行中だなんて、恥ずかしくも知らなかった。

途中から読む前にできるだけ連載の最初のほうはないかとバックナンバーを探してみると、「第六回」が遡れる最新のものだったので、それが掲載されている号を早速持ち出し、図書館内で早速読み始めた。取り上げられていたのは舞城王太郎だった。

舞城王太郎。あまりいい印象のない作家である。以前、どこかで福田和也が絶賛していたため舞城の『阿修羅ガール』を購入し読んだことはあるけれど、途中から壊れていく文章、物語構造についていけなかったのである。たしかに文章はうまく、読み応えはあった。途中までは。

これが現代の文学(小説)なのか、といろいろな意味で落胆するばかりであったが、再び舞城王太郎についての文章を読まなければならなくなった。福田和也の文章を追っていこう。
強引さが、つねに幼さ、ひ弱さとともに現われるところにこそ、舞城王太郎流の暴力の、論理においても肉体的にも発揮される、その傍若無人の本質がある。というよりも、舞城作品における暴力は、その基盤も論理も欠いた森羅万象にかろうじて秩序に似たもの、世界らしきものをあたえる、唯一の力である。
にもかかわらずその暴力は、「定められた目標」や「解決の目処」をもちえない。だからこその「幼さ」。それゆえに、暴力は「歯止めない徹底的なもの」とならざるをえないのである。この「幼さ」と「徹底性」は、今日話題にのぼりつづける青少年の犯罪に見うけられるものと同じものだ。今日では「幼児性を帯びてあらわれる舞城作品の暴力こそが、現実的」なのだ。

実際、『阿修羅ガール』を読んでみて強く印象に残ったことは、リアリティ、現実性の高さである。そうそう、今の子はこういう会話をしているなぁ、確かにそんな考え方をしていると納得したことは事実である。ところで、私たちが一般に人間を描いていると考える小説(純文学)について、リアルだと思うことはできても、それがリアルであるという保証は何もない。単に、そう感じているだけである。その意味では、リアルを感じることのできる力が、舞城王太郎の小説にあったことは理解している。

そして福田和也は推理小説を引き合いに出す。「推理小説というジャンル自体が、人間性の軽視、ヒューマニティの縮減を必然的に要請する」のは、小説を想像力の賜物とするロマン主義の文学観と正面からぶつかった、エドガー・アラン・ポーの文学観、すなわち「文芸をある種のメカニズム、論理によって構成される仕掛け、誰にでも組みたてられる汎用品」とみなす乾いた視点が推理小説の原点だからである。舞城王太郎はこの推理小説を出発点とした作家なのである。

舞城王太郎は、人間性の希薄な小説作法をそのまま純文学に持ち込んだ。そして、その希薄さが、現在、生きている人間たちの感情と関係の希薄さと接近するというわけだ。それだけではない。恐怖というものについて、ポーの作品では、「外側に発するものではなく、人間の内面の不確かさ、気まぐれ、根底の欠如に発し、その外在化として畏怖すべき力がせまってくる」一方で、舞城作品では「自分がいつか殺されるという確信、その恐怖が、ここでは歓喜と同一になっている」「無力であるということ、無意味な存在であるということの確信が最上の歓喜をもたらす」とされるのである。

ポーの恐怖観は舞城と比べて多分に人間的であると(従来なら)考えられるだろう。ここでは、舞城作品はきわめて非人間的である。恐怖に喜びさえ見出す無力さは、子供であること、幼児的であることと直接に結びついている、と福田和也は云う。人間の幼児性において、舞城王太郎は現実よりも徹底していると云えるだろう。その幼児性は非人間的ですらある。ここで、舞城王太郎は人間から遠ざかっていってしまうのだろうか。それとも、幼児性こそが、現代の人間に符号するのだろうか。

以下、続く
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# by le-moraliste | 2007-09-05 05:25 |

今日のフリーメモ

今日の気になったキーワード

・ユコス事件

・故サイデンステッカーの自伝

・長期金利論争―金利を成長率より高く設定するのが先進国の常識らしいが、それを巡る話

 
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# by le-moraliste | 2007-09-04 03:27 | メモ
古い新聞を読んでいたら、宮澤喜一元首相の死去を報じる記事の中で、こんなものを見つけた。死去を受けての細川元首相の談話で、首相就任直後、首相しか知らないことの申し送りで2時間ばかり話した、とあった。

さて、首相しか知らないことの申し送り、とは何だろう。非常に気になる内容である。首相しか知らないのだから、一般には漏れることはないに違いない。でも非常に知りたい。日本にどれほどの国家機密があるのだと訝りたくなるけれど、知りたい。

そう云えばアメリカのトルーマン元大統領は、第二次大戦中、ルーズベルト前大統領が突然亡くなったあと副大統領から大統領に就任したさい、初めて原爆の投下計画があるのを知ったという。副大統領にも原爆計画を隠しておいたというのは不思議であるが、そこで初めて知ったトルーマンも、相当驚いたに違いない。どこの国のトップも、人には明かせない秘密を抱えながら仕事をしているのだろう。ましてや一国の最高機密となれば、そのプレッシャーは計り知れない。でも、私は知りたいのである。

【追記】
ネットで検索してみたら、田中秀征氏の文章を見つけた。「宮沢先生の思い出」と題するエッセイで、まさに、この宮澤・細川会談について触れている。田中氏はそれに同席していたそうだ。

長いので引用しないが、なるほど、やっぱり「日本の首相には引き継ぎを必要とする案件はない」んだそうだ。クリントン大統領との会談内容について、具体的には「「NPT条約」(核不拡散条約)の延長問題や日本の常任理事国入り問題についての重要な話」だったそうだが、確かに国家機密のようなものではない。でもその会談内容について、やっぱり知りたいなぁ。

            *          *          *

昨日の『産経新聞』(19.8.21.付)で、ムネオ問題で非難を浴びに浴びまくった元外務省官僚の東郷和彦氏が『北方領土交渉秘録』という本をだしたそうで、そのインタビューが掲載されていた。

その内容はどうでもいいのだが、ここで北方領土問題の歴史を簡単に確認していきたいので、メモ。


1945年8月9日   ソ連軍、満州侵入

1956年        日ソ共同宣言
               国交回復成立とともに、平和条約後の二島先行返還を約束

1993年        東京宣言
               四島帰属問題を法と正義の原則を基礎として解決すると宣言

1997年        クラスノヤルスク合意
               両国間で領土問題が存在することを明文化

2001年        イルクーツク声明
               日ソ共同宣言の確認

この半世紀、まるで進展していないことが、これだけでもわかる。私個人の見立てでは、永遠に返還は不可能であると思われる。
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# by le-moraliste | 2007-08-22 03:47 | 新聞・ニュース

芥川賞と『Always』

一ヶ月も間を挟んでしまったので、何か書こう。常時チェックしてくれている人は、おそらく皆無。閲覧者のほぼ全てがグーグルか何かの検索で一瞥するだけにもかかわらず、だ。

お盆に実家に帰り、たくさんの本を抱えて読むのを愉しみにしていたのだが、例によって、姪っ子たちとのバトルで疲れきるだけであった。そんな数少ない暇な時間で読んだものは、せいぜい『週刊文春』と『文藝春秋』くらい。

            *          *          *

今月の『文藝春秋』には芥川賞受賞作が全文掲載されていて、諏訪哲史「アサッテの人」というのがそれだが、私は全く読む気にならないので選評だけを眺める。しかも慎太郎のものと山田詠美の短文のみ。

慎太郎は常のように氏自身の文学観から候補作をすべてなで斬りしていた。いわく、表題の適当さはもういい加減にしてもらいたい、と。確かに。でも、だいぶ前の芥川賞受賞作、川上弘美の『蛇を踏む』を当時選評でこき下ろしていた一方で、川上弘美のその後の活躍はご存知の通り。なにも慎太郎の文学観を否定するわけじゃないけれど、必ずしも慎太郎の考え通りにはこの昨今の文学界は進んではいないということである。もっとも、『蛇を踏む』をはじめ、川上弘美の小説を私は一篇も読んでいないので、私にはどうとも判断できません。

同じく選評で山田詠美のを読んでみたのは、ただ選評の最後にあって目についたから。で、驚いた。受賞作を評して最後に「この受賞が、作者の<アサッテ>になってくれたら、嬉しいな」。

こっちこそ、いい加減にしてもらいたい。なんだその気の抜けた文章。こんなもので、選考委員一回100万円もらえるとは。

            *          *          *

子供たちに合わせて映画『西遊記』を観た。主演の・・・(名前がでてこない)、 そうだ、香取慎吾の演技下手には目を背きたくなるけど、子供たちの孫悟空= 香取慎吾人気はすごかった。個人的にはウッチャンに注目していたけれど。

王女役の多部未華子がいい演技をしていたと思う。存在感もあるし、表情もよかった。CMではよく見かける子だが、これでようやく名前を覚えることができた。今後に期待。

            *          *          *

家に戻ってからは、なんだか映画を観たくなったので、外出途中で思わず映画館に立ち寄る。『トランスフォーマー』か『オーシャンズ13』か迷ったけれど、時間の都合で後者に。

やはり一作目(『11』)がよかった。アンディ・ガルシアがコミカルな立場にたたされていて多少面白かったが、やはりホテルオーナーとしての風格を感じさせる演技を見たかった。ストーリー上、仕方なかったかもしれないが。

まだ観たりないので、DVDを借りてきて『Always 3丁目の夕日』を自宅で観た。かなり流行に遅れているけれど、ようやく観る気になった。確かに、噂に違わぬ面白さであった。

玄人筋からも評判がよかったので安心して観ていたけど、(私自身は知らない)昭和30年代の日本の街角の様子が見事に描かれていたと思う。涙を誘う展開がありがちではあるが、そんな物語も実際にあったろうと思わせる時代であるのは確か。みんなが上を向いていた時代だったのだろう。特に、目立った建物のない地平に東京タワーが聳える画は、なんとも云えない趣きがある。高層ビルなどなかった当時の東京から、今のビルが林立する東京へ、何がどう変わっていったのだろう。
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# by le-moraliste | 2007-08-17 20:08 | 映画
ここ数週間、さまざまな“アイデア”で我々の度肝を抜いてくれている中国の食料品問題であるが、ここでふと気づいたことがある。かつてアメリカ牛肉のBSE問題で頻りに輸入再開を拒んできた人々が、なぜか中国製品の全面輸入禁止を云い出さないのだ。

おそらく科学的にはBSEよりも昨今取り上げられる中国製品のほうがもっと人体への危険性が高く、なおかつアメリカの検査システムよりも中国の検査機関(とその報告)のほうが誰の目にもはるかに信用度の低いものであるにもかかわらず、だ。

中国製品が日本から根こそぎ消えてしまっては日本経済が成り立たない、と彼らが言い訳しそうな理由も一見、理解できそうなところがあるけど、米国産牛肉が輸入禁止になって一般消費者や企業がどれほど混乱をきたしたかを思い出せば、この理由はあてにならない。そもそも、米国産牛肉が日本の市場から消えてもそれほど大きな影響はないだろうという理屈で当時、輸入禁止を主張していたわけではないのだ。彼らの主張が大手を振っていたのは「食の安全」という絶対倫理のゆえだったのではないのか。

まさにその「安全」という絶対的偶像から、中国製品や中国産食料品は排除されるべき対象となるはずだ。しかしながら、現実にはそうなっていない。メディアを斜め読みできる多くの現代人たちは、そこに反米と(この語は好きではないが)媚中の論理が依然として活躍していることを、軽蔑の感情で眺めていることだろう。本当にバカバカしい。

ちなみに私としては、BSE問題はそんなに致命的な欠陥だとは思われなかったので消費者がそれぞれ判断すればよく、全面的に輸入を禁止するほどのことではなかったと思う。同じように、今回の件でも中国製品をすべて輸入禁止するほどのことでもないだろう、と考える。市場社会なのだから、最終的には消費者が責任をもてばいいだけの話である(もちろん国家の役割は必要だけど)。

         *          *          *

今日の新聞で大笑いしてしまった一文。参院選の街頭演説でのヒトコマで、写真のキャプションとして書かれていたもの。(『産経新聞』2007年7月15日付)
聴衆のカラフルな傘を見て小泉純一郎前首相は「赤、緑、白。傘もいろいろ、人生もいろいろだ」と街頭演説を展開した
どういう文脈でこの言葉を発したのか、まったく意味不明な内容だが、私が活字で読んで爆笑してしまうくらいだから、目の前で小泉前首相のこのセリフを聞いたらもう面白くて仕方ないだろう。元々の「人生いろいろ」発言が出現した文脈を考えると多少不謹慎に思えるが、そこは天才小泉氏、これをあえて聴衆の気分を盛り立てる道具に使ってしまう。しかも効果は抜群である。

まったく、稀有な政治家だと認めざるを得ない。小泉氏が日本の政治及び政治報道を変えたと云われるが、おそらくそれは、小泉氏にしかできない『政治』であるように思う。
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# by le-moraliste | 2007-07-15 09:41 | 新聞・ニュース

フジモリ元大統領万歳

眠れないので、久しぶりに書いてみる。

何度迎えても楽しみな国政選挙がまたやってきた。しかも、各種調査で与党が大敗すると予想されているとくれば、否が応にも気分は高揚してくる。

私は今回自民党は負けてしかるべきだとは思わないけれど、もうこういうムードが完璧に作られている以上、それは仕方のないことだろう。むしろ、与党が参議院の過半数を割るという近年にはない貴重な出来事を目にすることができるというのは、想像するとそれだけで興奮してしまう。個人的には、かの郵政選挙のときよりも注目しているし、そうするべきだとも思うのである。

そしてもし与党が過半数割れに陥ったときに最も注目されるのが、国民新党の動向。久しぶりに亀ちゃん(亀井静香氏)の元気な姿を見られるかもしれない、と亀井ファンとしてはこの上ない状況だ。さらに――もっと興味深いのが、国民新党の立候補者であろう。

フジモリ元ペルー大統領、ペマ・ギャルポ、中村慶一郎、関口房朗・・・。最後の人はどうでもいいとして、人選のセンスがとても素晴らしい。どの政党よりもずば抜けてシブイと云える。

チリで軟禁中の身で国外どころか自宅から出られるのかどうかもわからない元大統領、日本国籍を持っていたんだと今回初めて知った一部で人気の高いギャルポ氏、もうその評論家人生を終えようとしているときにとびでてきた慶一郎氏。

特に、日本入国には多大な困難が予想される(むしろほぼ不可能なんじゃないかと思える)フジモリ氏に目をつけた国民新党の男気を、私は評価したい。そして、フジモリ氏が日本の国会で質問席に立つ姿を想像したい。

国家の最高機関であるにもかかわらずあまりに生ぬるい日本の政治に、テロリストとの武力衝突や麻薬組織との血みどろの戦いを指揮し、政情不安で混乱を極めた国のトップをつとめ、国際社会の酷薄さを肌で知っているフジモリ氏がなにをもたらしてくれるか。

紛れもない実績に裏づけされた氏の主張に、まともに応えられる日本の政治家は皆無であろう。氏は、大統領として頂点の栄光に浴し、急転直下、汚職疑惑によって祖国から追放され今や完全に没落した。栄光と挫折を最高レベルで経験したフジモリ氏の登院に、期待しない方がおかしいというものであろう。

実際に当選するかどうかは厳しいところがあるだろうが、こういう人材を日本人が受け入れるようになれば、政治のみならず様々な分野で日本社会の刺激になると思うのだが。それにしても、フジモリ氏立候補の報道を見て以来不安だったのだが、公示日を迎え無事、国民新党の正式な立候補者として列せられていることを確認して、本当にホッとしている。
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# by le-moraliste | 2007-07-13 02:51 | 独白

岸田夏子と劉生と

今月号(7月号)の『文藝春秋』の「同級生交歓」を読んでいたら、東京芸大付属高校同窓として元NHK・外務省報道官の高島肇久らとともに、岸田夏子という人が出ていた。(実は、『文藝春秋』の「同級生交歓」コーナーが私は結構好きだ。意外な人が意外な人と同級生だったりするのが面白くて、密かに名連載だと思っている。)

彼女は画家を仕事にしているそうで、その名前と職業から想像できるように画家・岸田劉生の子孫だ。書かれた文によれば「岸田劉生画伯の"麗子"の娘」だという。麗子になんで" "がつけてあるのかよくわからなかったので調べてみると(相変わらずウィキペディア)、劉生は娘の麗子の肖像画をよく描いていたらしい(有名なことのようだ…)。その麗子の娘が岸田夏子というわけだ。彼女自身は芸大から芸大院にすすみ、現在画家として活躍している。

でも、なんでわざわざここで取り上げたかと云えば、今読書も佳境に入った福田和也『近代の拘束、日本の宿命』(文春文庫)で最も感動した部分、つまり前回のエントリーで私が唯一性の高揚感を得たところが、岸田劉生の章だったからである。その絶対的な「美」への自信から、近代という拘束から免れることができた数少ない日本人の例として、福田和也が筆致を尽くすこの章はあまりに感動的だ。

ここではその紹介は措き、それについては改めて書くとして、岸田劉生をウィキで検索していたら、劉生の父の名は、岸田吟香(ぎんこう)だという。これも聞いたことのある名前だ。明治期のジャーナリスト。吟香は中国と薬業にも関係する人物とか。こう聞けば、星新一の父が阿片利権をもとに大正時代に隆盛をきわめた星製薬の創業者という話ともかぶってきて、なんだか関係がなくもなさそうな気もする。

ところで、苗字が同じことから前々から気になっていた劇作家の岸田國士(くにお)との繋がりがあるのかどうか調べてみたら、どうやら親戚でもないらしい。岸田國士の娘はご存知、女優・岸田今日子である。昨年、亡くなられたことを思い出す。
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# by le-moraliste | 2007-06-08 08:34 | 雑誌

愛すべき読書

ある種の優れた書物(もしくは絵画でも音楽でもいい。でも、飾られる名画や偏在する音楽では得られない唯一性的体験が潜在的に書物にはある、ような気がする)、その書物の一文一文を読んでいるとき、まるで森の中を彷徨いながら木々の姿を凝視していると森全体の相貌が頭の中に広がってくるかのような、ひとりだけの高揚感を得ることがある。

そんな感情を持ちえる書物、文章は稀ではあるが、だからこそ貴重であり、貴重であるからこそ高ぶる気持ちはいやにも増していく。自分は世界の真実と今まさに繋がったという錯覚、今、世界中でおそらく自分だけが自分だけの真実を見ているだろうという唯一性の体験。これこそ私が読書を愛する最大の理由であり、書物が永遠であることの最大の証明なのではないか。

そんなことを福田和也『近代の拘束、日本の宿命』(文春文庫)を徹夜で読んでいた、朝の7時に考えてしまった。
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# by le-moraliste | 2007-06-07 07:17 | 独白
今週の『週刊文春』(6/7号)を読んでのメモ。

※気になっていた文春の文章劣化問題。今号ではすっかり直っていた。いったい、何があったというのだろう。

※中国の地方政府の恐るべき腐敗ぶりが紹介されている記事で、その恐ろしさを知らしめるあり得ない事実が書いてあった。なんでも、地方政府の腐敗がどうしようもないので中央政府に直接、陳情しに行こうとした市民を、中央に罰せられるのを怖れた役人たちが抹殺したという事件があったらしい。腐敗なんてもんじゃない。悪魔的人間たちが彼の国に棲んでいる。そして彼らを育てたのは紛れもなく、歴代の中央の共産党指導部である。

※猪瀬直樹氏のエッセイに、森鴎外が晩年気にかけていたのが元号についてだったことを知った。その遺志が、実際に「昭和」という元号の成立に少なからずかかわっているらしい。すなわち、鴎外の晩年の日記を代筆した宮内省役人の吉田増蔵が「昭和」という元号を作ったのである。この吉田増蔵は昭和16年12月8日の(そう、あの日である)「米国及び英国に対する宣戦の詔書」の起草にも関わりをもった、という。

鴎外は「明治」や「大正」という元号の不適切さに不満をもっていたようで、なんとか次の元号こそは相応しいものであるべきだと研究していた。そこで軍を退官後、宮内省に勤めはじめる。そこで出会ったのが、漢学の素養豊富な吉田だった。鴎外のこの執念についてもっと知りたいと思うのであるが、それを取り上げている、猪瀬氏が当エッセイで(何度も)紹介している(いつものことだ)自著『天皇の影法師』を、どうしても買って読む気にならないのはなぜだろう(これもいつものことだ)。ちなみに、「平成」の年号を考案したとされるのは陽明学者の安岡正篤(まさひろ)で、細木数子の占星学の師匠である。

※今週の土屋賢二教授のエッセイは抱腹絶倒もの。読むべし。

※宮崎哲弥が低俗雑誌『AERA』(の山田厚史)を罵倒。なるほどもっともだが、それより先日の新聞の「安倍日誌」に、森元首相、安倍首相とともに料亭かどこかで会合をもったことが書かれていた。「森の清談」の続編なのか、はたまた別の企画でもあるのか。気になるところではある。

※今週の「私の読書日記」は愛すべき鹿島茂教授。鹿島氏が最初に紹介している、ティム・バークス『メディチ・マネー』(白水社)があまりに面白そうだ。やはり、この人は文章がうまい。読んだ人を本当に読みたい気にさせる。利子で稼ぐこと(つまり銀行稼業)が悪とされるキリスト教社会において、いかにして利ザヤを得るかを考えたメディチ家。それを聞いただけで、本書を読みたくさせる。というか、読もう(猪瀬氏との明らかなギャップ)。

※JALが2000億円の増資救済策を銀行に要請したという記事。その方法はDES(Duty Equity Swap)というもので、債務を株式に転換することを云うらしい。借り入れの一部を議決権のない優先株(どういうことだろう?)に転換させれば、債務者(JAL)は利払いをしなくていい反面、金融機関にとっては株の保有というリスクが生じる。ここであるメガバンクの中堅幹部が語っている内容がよくわからない。

「優先株に切り替えた分で、債務超過を穴埋めするのです。だから、切り替えた株の資産価値はゼロです」。前半はわかるが、後半がどうも判然としない。優先株といっても株なのだから、資産的価値としてある程度は意味があるのではないか。こんど調べてみよう。

また「JALは自己資本に比べ借入金が多すぎ云々」と書かれているので、ANAと比較した上で調べてみた。(ともに昨期の数字。決算報告書参考)

      自己資本       借入金(有利子負債残高)  比率
JAL    1,480億円      12,364億円         11%
ANA    3,982億円      7,494億円          53%

素人の参照方法なのでこれで正しいかどうかわからないけども、この単純な計算でも明らかに借入大幅超過。どうやって再建するのだろう、JAL。
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# by le-moraliste | 2007-06-03 03:12 | 雑誌