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by le-moraliste
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午前中に図書館へ行くことが、最近愉しみである。

近所の図書館は狭くて本の数もわずかと、いいことなしずくめなのだけど、それでも趣くまま自由に本をとり、椅子に腰かけ本を読めるのは、格別の喜びがある。無分別な子供たちが賑やかでうるさく感じることがあっても、それもたいして気にならないくらいに落ち着ける。

何回か通えば、常連のようにご老人方が静かに読書している光景に慣れてくる。朝一番で図書館にやってきて、その日の新聞や当日発行された雑誌を中心に読んでいるようだ。おそらく、それが生活の大きな愉しみになっているのだろう。何を読んでいるんですか、と声をかけてはバチが当たりそうなほど溶け込み、自然である。

私も負けじと雑誌コーナーで面白そうな記事を物色していたら、文芸誌『新潮』で、福田和也「わが戦前――平成年間の感情、思想、文芸――」なる連載が掲載されているのを見つけた。こんな、タイトルだけで面白そうな連載が進行中だなんて、恥ずかしくも知らなかった。

途中から読む前にできるだけ連載の最初のほうはないかとバックナンバーを探してみると、「第六回」が遡れる最新のものだったので、それが掲載されている号を早速持ち出し、図書館内で早速読み始めた。取り上げられていたのは舞城王太郎だった。

舞城王太郎。あまりいい印象のない作家である。以前、どこかで福田和也が絶賛していたため舞城の『阿修羅ガール』を購入し読んだことはあるけれど、途中から壊れていく文章、物語構造についていけなかったのである。たしかに文章はうまく、読み応えはあった。途中までは。

これが現代の文学(小説)なのか、といろいろな意味で落胆するばかりであったが、再び舞城王太郎についての文章を読まなければならなくなった。福田和也の文章を追っていこう。
強引さが、つねに幼さ、ひ弱さとともに現われるところにこそ、舞城王太郎流の暴力の、論理においても肉体的にも発揮される、その傍若無人の本質がある。というよりも、舞城作品における暴力は、その基盤も論理も欠いた森羅万象にかろうじて秩序に似たもの、世界らしきものをあたえる、唯一の力である。
にもかかわらずその暴力は、「定められた目標」や「解決の目処」をもちえない。だからこその「幼さ」。それゆえに、暴力は「歯止めない徹底的なもの」とならざるをえないのである。この「幼さ」と「徹底性」は、今日話題にのぼりつづける青少年の犯罪に見うけられるものと同じものだ。今日では「幼児性を帯びてあらわれる舞城作品の暴力こそが、現実的」なのだ。

実際、『阿修羅ガール』を読んでみて強く印象に残ったことは、リアリティ、現実性の高さである。そうそう、今の子はこういう会話をしているなぁ、確かにそんな考え方をしていると納得したことは事実である。ところで、私たちが一般に人間を描いていると考える小説(純文学)について、リアルだと思うことはできても、それがリアルであるという保証は何もない。単に、そう感じているだけである。その意味では、リアルを感じることのできる力が、舞城王太郎の小説にあったことは理解している。

そして福田和也は推理小説を引き合いに出す。「推理小説というジャンル自体が、人間性の軽視、ヒューマニティの縮減を必然的に要請する」のは、小説を想像力の賜物とするロマン主義の文学観と正面からぶつかった、エドガー・アラン・ポーの文学観、すなわち「文芸をある種のメカニズム、論理によって構成される仕掛け、誰にでも組みたてられる汎用品」とみなす乾いた視点が推理小説の原点だからである。舞城王太郎はこの推理小説を出発点とした作家なのである。

舞城王太郎は、人間性の希薄な小説作法をそのまま純文学に持ち込んだ。そして、その希薄さが、現在、生きている人間たちの感情と関係の希薄さと接近するというわけだ。それだけではない。恐怖というものについて、ポーの作品では、「外側に発するものではなく、人間の内面の不確かさ、気まぐれ、根底の欠如に発し、その外在化として畏怖すべき力がせまってくる」一方で、舞城作品では「自分がいつか殺されるという確信、その恐怖が、ここでは歓喜と同一になっている」「無力であるということ、無意味な存在であるということの確信が最上の歓喜をもたらす」とされるのである。

ポーの恐怖観は舞城と比べて多分に人間的であると(従来なら)考えられるだろう。ここでは、舞城作品はきわめて非人間的である。恐怖に喜びさえ見出す無力さは、子供であること、幼児的であることと直接に結びついている、と福田和也は云う。人間の幼児性において、舞城王太郎は現実よりも徹底していると云えるだろう。その幼児性は非人間的ですらある。ここで、舞城王太郎は人間から遠ざかっていってしまうのだろうか。それとも、幼児性こそが、現代の人間に符号するのだろうか。

以下、続く
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by le-moraliste | 2007-09-05 05:25 |

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by le-moraliste | 2007-09-04 03:27 | メモ