本・雑誌・ニュース・頭の中のメモ・メモ・ひたすらメモ


by le-moraliste
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

カテゴリ:本( 50 )

天皇関係文献 所蔵一覧

天皇関係の書籍で所有しているものをまとめる。他にもあるかも。

浅羽通明 『天皇・反戦・日本』 幻冬舎 2007年
        ※一部読み
浅見雅男 『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』 文藝春秋 2011年
        ※読了(2012.10)
安部能成他 『天皇の印象』 創元社 1949年
        ※未読
石井良助 『天皇 天皇の生成および不親政の伝統』 講談社学術文庫 2011年
        ※未読
猪瀬直樹 『天皇の影法師』 新潮文庫 1987年
        ※未読
猪瀬直樹 『ミカドの肖像』 小学館文庫 2005年
        ※未読
入江相政 『真夜中の硯 侍従長のひとりごと』 講談社 1982年
        ※未読
入江相政 『入江相政日記』 朝日新聞社
        ※拾い読み
入江相政 『入江相政日記』 全12巻 朝日文庫 1994~95年
        ※未読
岩井克己 『天皇家の宿題』 朝日新書 2006年
        ※読了
岩見隆夫 『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』 文春文庫
        ※読了
小田部雄次 『ミカドと女官 -菊のカーテンの向こう側』 恒文社 2001年
        ※未読
小田部雄次 『昭憲皇太后・貞明皇后』 ミネルヴァ書房 2010年
        ※未読
折口信夫 『折口信夫天皇論集』(安藤礼二編) 講談社文芸文庫
        ※未読
加瀬英明 『天皇家の戦い』 新潮文庫 1983年
        ※未読
加瀬英明 『昭和天皇 三十二の佳話』 有楽出版社
        ※拾い読み
河原敏明 『昭和天皇の妹君 謎につつまれた悲劇の皇女』 文春文庫 2003年
        ※読了。三笠宮の双子の妹=円照寺門跡を明らかに
河原敏明 『昭和天皇とその時代』 文春文庫 2003年
        ※読了。通史
久能靖 『知られざる皇室 伝統行事から宮内庁の仕事まで』 河出書房新社 2010年
        ※一部読み
皇室担当記者編 『皇室報道の舞台裏』 角川oneテーマ 2002年
        ※読了
後藤致人 『内奏 天皇と政治の近現代』 中公新書
        ※拾い読み
坂本多加雄 『象徴天皇制度と日本の来歴』 都市出版 1995年
        ※読了
佐野眞一 『枢密院議長の日記』 講談社現代新書 2007年
        ※拾い読み
佐野眞一 『昭和の終わりと黄昏ニッポン』 文春文庫 2011年
        ※読了(2011.11)。雑誌掲載文を単行本にまとめたものを文庫化
         昭和天皇の崩御前後。昭和天皇の不在と平成の時代諸相の関係を描く
清水勲 『ビゴーが見た日本人』 講談社学術文庫 2009年
        ※未読。明治期日本に17年間滞在したフランス人画家が描く日本
清水勲 『ビゴーが見た明治職業事情』 講談社学術文庫 2009年
        ※未読。フランス人画家が明治期日本を描いた絵をもとに明治の職業を紹介
杉森久英 『明治天皇』 中央公論社 1986年
        ※未読
杉森久英 『天皇の料理番』 読売新聞社 1980年
        ※未読
高橋紘・所功 『皇位継承』 文春新書 1998年
        ※拾い読み?
高橋紘 『人間 昭和天皇』上下 講談社 2011年
        ※上巻読了(2012.1)
高松宮宣仁 『高松宮日記』 中央公論社
        ※拾い読み
千田稔 『華族総覧』 講談社現代新書
        ※拾い読み
筒井清忠 『昭和期日本の構造 二・二六事件とその時代』 講談社学術文庫 1996年
        ※読了
寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー 『昭和天皇独白録』 文春文庫 1995年
        ※拾い読み
イザベラ・バード 『イザベラ・バードの日本紀行』上下巻 講談社学術文庫 2011年
        ※未読。1878年来日したイギリス人女性の日本旅行記
橋本明 『平成皇室論 次の御代にむけて』 朝日新聞出版 2009年
        ※読書中(2011.12)
原武史 『大正天皇』 朝日選書 2001年
        ※読了
原武史・保阪正康 『対論 昭和天皇』 文春新書 2004年
        ※読了
原武史 『昭和天皇』 岩波新書 2008年
        ※読了
原武史 『増補 皇居前広場』 ちくま学芸文庫 2007年
        ※未読
半藤一利 『卜部日記富田メモで読む人間・昭和天皇』 朝日新聞社 2008年
        ※未読
福田和也 『美智子皇后と雅子妃』 文春新書
        ※読了
福田和也 『昭和天皇 第一部』 文藝春秋 2008年
        ※連載時にほぼ読了。単行本も読了(2011.6)
福田和也 『昭和天皇 第二部』 文春文庫 2011年
        ※読了(2011.6)
福田和也 『昭和天皇 第三部』 文藝春秋 年
        ※読了(2011.7)
福田和也 『昭和天皇 第四部』 文藝春秋 年
        ※読了(2011.7)
福田和也 『昭和天皇 第五部』 文藝春秋 2011年
        ※未読
T.フジタニ 『天皇のページェント 近代日本の歴史民族誌から』 NHKブックス 2002年
        ※読了
古川隆久 『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』 中公新書 2011年
        ※拾い読み
文藝春秋編 『大いなる昭和 昭和天皇と日本人』 文春文庫 1996年
        ※一部読み
保阪正康 『秩父宮 昭和天皇弟宮の生涯』 中公文庫 2000年
        ※未読
保阪正康 『昭和天皇』 中央公論新社 2005年
        ※読了(2009)
保阪正康 『崩御と即位 宮中で何が起こっていたのか』 新潮社 2009年
        ※一部読み(2011)
H.G.ポンティング 『英国人写真家の見た明治日本』 講談社学術文庫 2011年
        ※未読。1902年頃日本を訪れたイギリス人写真家の旅行記
御厨貴他 『近現代日本を史料で読む 「大久保利通日記」から「富田メモ」まで』 中公新書 2011年
        ※一部読み(2011)
オットマール・フォン・モール 『ドイツ貴族の明治宮廷記』 講談社学術文庫 2011年
        ※拾い読み。お雇い外国人として宮内省に招聘されたドイツ外交官の日本体験記
矢澤高太郎 『天皇陵の謎』 文春新書 2011年
        ※拾い読み。元読売新聞記者。古代天皇の実在は否定
八幡和郎 『お世継ぎ 世界の王室・日本の皇室』 文春文庫 2007年
        ※拾い読み
八幡和郎 『皇位継承と万世一系に謎はない』 扶桑社新書 2011年
        ※未読
山本七平 『昭和天皇の研究 その実像を探る』 祥伝社 1989年
        ※読了
山本雅人 『天皇陛下の全仕事』 講談社現代新書 2009年
        ※読了
横井齊 『昭和天皇の笑顔』 保育社 1990年
        ※未読
吉田祐二 『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』 学研パブリッシング  2011年
        ※拾い読み(2011)
歴史雑学探究倶楽部編 『天皇家の謎』 学習研究社 2008年
        ※拾い読み
渡辺誠 『昭和天皇のお食事』 文春文庫 2009年
        ※読了
渡邉允 『天皇家の執事 侍従長の十年半』 2011年
        ※読了(2011.12)
『昭和天皇と激動の時代 【終戦編】 正論9月号臨時増刊号』 産経新聞社 2005年
        ※拾い読み
『特集 近代天皇論 大航海 No.45』 新書館 2003年
        ※一部読み


2012.1.7.追記
[PR]
by le-moraliste | 2011-05-16 17:53 |
買い忘れていた本を近所の本屋で見つけたので、対価を支払うや否やさっそく家で読み始めた。坪内祐三『東京』(太田出版)。ナントカという雑誌に連載されていた、東京の街をテーマとしてエッセイ集のようだ。知らなかった。

例によって、先走って興味のあるところをパラパラめくっていると、いくつもの思わぬ言葉に出会った。ひとつは、坪内祐三が雑誌『東京人』の編集者時代に、編集長粕谷一希のとりはからう若手学者の研究会の助手をしていたということだ。そこには、坂本多加雄先生の名前が・・・。先生は、坪内祐三のことを知っていたのだろうか。あるいは、一編集者として、記憶に残らなかっただろうか。あの頃、坪内祐三の話題を話してみればよかった。当時の思い出でも話してくれたかもしれない。(いや、坪内祐三の名前は先生の前で云ってみた記憶もあるのだけど。)

それで、本書は坪内祐三の『東京人』時代のエピソードが豊富なので、そのあたりを中心に読んでしまう。そして、坪内祐三が編集部に入るいきさつとか、『東京人』という雑誌の創刊にまつわる話とかが面白かったのだけど(例えば坪内祐三の父親が『東京人』創刊の黒幕だったというような)、ちょっと意味ありげな名前の人物がでてくるところがある。

「K氏」と、本文では名前が伏せられてはいるが、同時に『秘密結社の記号学』という本をだしたとまで書いてあるのだから、K氏という表現は意味ありげだ。私のような読者はすぐネットでK氏の本名を調べるわけであるから。

K氏とは加賀山弘のこと。そんなもん、すぐわかった。でも、初めて聞いた名前である。K氏は編集部に半年ほど在籍しただけのようで、坪内祐三とは、常盤新平との関係のなかで結構な立場にあったようである。それはそれで、常盤新平との話のほうが面白いので、K氏のことはすぐ忘れてしまうのであるが、その数ページ前に、粕谷一希が雑誌を創刊する目的を書いてあるところが印象的だ。粕谷氏はなんでも、アメリカの雑誌『ニューヨーカー』の東京版をだそうというらしいのだが、坪内祐三によれば、粕谷氏はおそらく、『ニューヨーカー』を読んだことがないであろうというのである。

ここに反応してしまうのは、ちょうど粕谷氏の『作家が死ぬと時代が変わる』(日本経済新聞社)という聞き語りの本を途中まで読んでいたからだ。これは粕谷氏の自伝。まだ半分くらいなので、『東京人』創刊の頃の話までは読んでいなかった。

早速、こちらのほうを読んでみると、ありました。『ニューヨーカー』にヒントを得て新雑誌を創るというエピソードが。なるほど、粕谷氏が昔から『ニューヨーカー』の愛読者であるというわけではないことは明らかである。そして。

その前後もパラパラ読んでいたら(坂本多加雄先生の名前はなかったが)、「あとがき」を読んでビックリ、同じくK氏という名前が登場するのである(「あとがき」まで読んでしまった)。この本は、「水木楊氏とK氏の勧め」によってできあがった本であると本人が書いているのだ。

このK氏という人、この人物が坪内祐三の云うK氏と同じであるかどうかはわからない。もし同じ人物を指しているとするならば、K氏が、親しい粕谷氏の、自分が大きく関わっているこの本のなかでも匿名なのは、一体なぜなんだろうか。それだけ。

= 追記 =
『作家が死ぬと時代が変わる』を最後までちゃんと読んでみると坂本多加雄先生の名前が途中ででてきた。これは失礼。(2008.8.7.)
[PR]
by le-moraliste | 2008-07-28 20:25 |
午前中に図書館へ行くことが、最近愉しみである。

近所の図書館は狭くて本の数もわずかと、いいことなしずくめなのだけど、それでも趣くまま自由に本をとり、椅子に腰かけ本を読めるのは、格別の喜びがある。無分別な子供たちが賑やかでうるさく感じることがあっても、それもたいして気にならないくらいに落ち着ける。

何回か通えば、常連のようにご老人方が静かに読書している光景に慣れてくる。朝一番で図書館にやってきて、その日の新聞や当日発行された雑誌を中心に読んでいるようだ。おそらく、それが生活の大きな愉しみになっているのだろう。何を読んでいるんですか、と声をかけてはバチが当たりそうなほど溶け込み、自然である。

私も負けじと雑誌コーナーで面白そうな記事を物色していたら、文芸誌『新潮』で、福田和也「わが戦前――平成年間の感情、思想、文芸――」なる連載が掲載されているのを見つけた。こんな、タイトルだけで面白そうな連載が進行中だなんて、恥ずかしくも知らなかった。

途中から読む前にできるだけ連載の最初のほうはないかとバックナンバーを探してみると、「第六回」が遡れる最新のものだったので、それが掲載されている号を早速持ち出し、図書館内で早速読み始めた。取り上げられていたのは舞城王太郎だった。

舞城王太郎。あまりいい印象のない作家である。以前、どこかで福田和也が絶賛していたため舞城の『阿修羅ガール』を購入し読んだことはあるけれど、途中から壊れていく文章、物語構造についていけなかったのである。たしかに文章はうまく、読み応えはあった。途中までは。

これが現代の文学(小説)なのか、といろいろな意味で落胆するばかりであったが、再び舞城王太郎についての文章を読まなければならなくなった。福田和也の文章を追っていこう。
強引さが、つねに幼さ、ひ弱さとともに現われるところにこそ、舞城王太郎流の暴力の、論理においても肉体的にも発揮される、その傍若無人の本質がある。というよりも、舞城作品における暴力は、その基盤も論理も欠いた森羅万象にかろうじて秩序に似たもの、世界らしきものをあたえる、唯一の力である。
にもかかわらずその暴力は、「定められた目標」や「解決の目処」をもちえない。だからこその「幼さ」。それゆえに、暴力は「歯止めない徹底的なもの」とならざるをえないのである。この「幼さ」と「徹底性」は、今日話題にのぼりつづける青少年の犯罪に見うけられるものと同じものだ。今日では「幼児性を帯びてあらわれる舞城作品の暴力こそが、現実的」なのだ。

実際、『阿修羅ガール』を読んでみて強く印象に残ったことは、リアリティ、現実性の高さである。そうそう、今の子はこういう会話をしているなぁ、確かにそんな考え方をしていると納得したことは事実である。ところで、私たちが一般に人間を描いていると考える小説(純文学)について、リアルだと思うことはできても、それがリアルであるという保証は何もない。単に、そう感じているだけである。その意味では、リアルを感じることのできる力が、舞城王太郎の小説にあったことは理解している。

そして福田和也は推理小説を引き合いに出す。「推理小説というジャンル自体が、人間性の軽視、ヒューマニティの縮減を必然的に要請する」のは、小説を想像力の賜物とするロマン主義の文学観と正面からぶつかった、エドガー・アラン・ポーの文学観、すなわち「文芸をある種のメカニズム、論理によって構成される仕掛け、誰にでも組みたてられる汎用品」とみなす乾いた視点が推理小説の原点だからである。舞城王太郎はこの推理小説を出発点とした作家なのである。

舞城王太郎は、人間性の希薄な小説作法をそのまま純文学に持ち込んだ。そして、その希薄さが、現在、生きている人間たちの感情と関係の希薄さと接近するというわけだ。それだけではない。恐怖というものについて、ポーの作品では、「外側に発するものではなく、人間の内面の不確かさ、気まぐれ、根底の欠如に発し、その外在化として畏怖すべき力がせまってくる」一方で、舞城作品では「自分がいつか殺されるという確信、その恐怖が、ここでは歓喜と同一になっている」「無力であるということ、無意味な存在であるということの確信が最上の歓喜をもたらす」とされるのである。

ポーの恐怖観は舞城と比べて多分に人間的であると(従来なら)考えられるだろう。ここでは、舞城作品はきわめて非人間的である。恐怖に喜びさえ見出す無力さは、子供であること、幼児的であることと直接に結びついている、と福田和也は云う。人間の幼児性において、舞城王太郎は現実よりも徹底していると云えるだろう。その幼児性は非人間的ですらある。ここで、舞城王太郎は人間から遠ざかっていってしまうのだろうか。それとも、幼児性こそが、現代の人間に符号するのだろうか。

以下、続く
[PR]
by le-moraliste | 2007-09-05 05:25 |

大平明と東京電力

同じく佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んでのメモランダム。

【大平明】
その聞きなれない苗字が暗示するように、元首相・大平正芳の子息。「東電OL」と同じ職場で働いていたことのあるこの三男は、現在、大正製薬の代表取締役副社長の責にあるとか。東京電力から大正製薬へ移籍した経緯はわからないが、意外なところで意外な名前を目にしたもんである。

ここで気になることが一点。佐野氏によれば、「東電OL」の父親が東京電力の重役を務めている最中、志半ばで命を亡くしたことを契機として「東電OL」本人が東京電力に仕事を求めたらしいのだが、彼女の妹も東京電力に勤めている事実と合わせ、創業者一族でも大株主でもない親子三人がひとつの大企業に(同時期ではないが)在籍することに違和感を感じないわけにはいかない。しかもそこに、元首相の三男という名を添えてみれば。

「東電OL」、彼女自身は優秀な人物であったようであるし、大平正芳も元大蔵官僚上がりの政治家だからその子供もおそらく才に恵まれているのだろう。けれども、親子三人というのは、はっきりいって異常であるとしか云えない。

※訂正
私の誤読で「東電OL」の妹も東京電力に勤めていると書いてしまったが、違った。大手電器メーカーに勤務しているらしい。

ということで、「親子三人」という指摘は完全な間違い。失礼しました。

昨夜、ようやく本書を読み終えて、最後のほうにこんなことが書かれていた。彼女は父親の元部下の口利きで東京電力に入社した、という。結論としては、結局、同じであるということは変わらないようだ。

最後に本書を読み終えて。著者が云うように、世の中の「小堕落」を嘲笑うかのような彼女の「大堕落」、坂口安吾の『堕落論』を地で行くような堕ちるところまで堕ちていく姿は、私たちを惹き付けてやまないだろう。

大学時代に尊敬してやまない父親を失った彼女の喪失感、それもまた、私には無縁ではない、ある種の関心を目覚めさせる。(記2007.5.31)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ここでひとつ、佐野氏の文章の中で、印象的なものをひとつ引用。
匿名のAが、匿名のBを殺害することなど絶対にあり得ない。/彼らは被害者も加害者も匿名化することで、犯罪にまつわるすぐれて人間的な部分を、すべてそぎ落としてしまう。私には、それこそ人間存在そのものを冒瀆する「犯罪」のようにみえる。
文中の「彼ら」とは、被害者のみならず加害者のプライバシーの保護をしつこく掲げるいわゆる人権派の人々、さらには被害者・加害者を形式的な図式(人間像)に当てはめ断罪しようとする検察官たちのことを指している。被害者・加害者のプライバシーを守ることに一意あるのは当然であるとしても、それは事件そのものの中身を覆い隠すことに他ならない。もし、私たちが、この社会で生まれる数多くの事件の真実を知りたいと思うのであれば、プライバシーの暴露は欠くことのできない。知るべきか、知らざるべきか―それが問題である。
[PR]
by le-moraliste | 2007-05-27 23:59 |

鮎川義介、高碕達之介

佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んでいてのメモ。

【鮎川義介】
戦前に「満州の政商」と云われた日産コンツェルンの創設者。過日、その孫・純太氏が女優・杉田かおるとの結婚問題で話題になった鮎川家であるが、現在は日産自動車とはどんな関係があるのだろう。

【高碕達之助】
満州時代、その鮎川義介の片腕として働き、戦後は電源開発株式会社の初代総裁を務めた人物。高碕は東電OL殺人事件と遠い関係にある岐阜県の御母衣ダムを作ったという。

【電源開発株式会社】
1952年に設立された国の特殊会社。

御母衣ダム建設に伴い移住を余儀なくされた住民たちの一部が、渋谷の円山町に集まり、そこで旅館やホテル業に携わったことと、この円山町で売春を続けた東電OLとに、つながりがあるわけである。

鮎川義介について、昨日読んだ本か雑誌か新聞かにその名前があったので、しかしそれがどこかにか思い出せず、とりあえずここにメモした次第。
[PR]
by le-moraliste | 2007-05-26 04:40 |
古いCDを引っ張り出して、なぜかDVDデッキで再生しながら読書なりネットなりをする最近(CDオーディオが壊れてウン年なのだ)。発売同時はさほどよくないと思ってそれから全く聴かないでいたDreamTheater『Falling Into Infinity』というアルバムを偶然DVDデッキでかけてみたら、これが意外なほどいい曲ばかりですっかり毎日再生しつづけている。普段、見向きもしないアルバムをたまには再生して生き返らせてみるのも面白いかもしれない。

今月読んだ本をとりあえずまとめ。まず有島武郎『小さき者へ/生まれ出づる悩み』(新潮文庫)。母親を失った自分の子どもたちへおくる手紙という形で有島の優しい言葉が綴られる「小さき者へ」と、(実在したのかどうかよくわからないが)有島が昔出会った、漁師を生業とする画家志望のある青年の生活を小説に仕立てた「生まれいづる悩み」という両編。

有島の小説は私小説的だと云われるらしいけれども、たしかにこれら短編は有島個人を表に出した、私的な文章であろう。そして、有島の文章はとても美しい。と、ここでもう内容を書く気にはなれず、ただ、解説の本多秋伍の文章のひどさだけ記す。何を云いたいのかさっぱりわからないほど、ひどい。主役が有島ではなく本多となってい、本多がただ自分のことを語りたいだけの文章である。

もう一冊読んだものが木全賢『デザインにひそむ<美しさ>の法則』(ソフトバンク新書)。ソフトバンク新書というそれ自体困難に陥っていそうな新書であるが、簡潔にデザインの法則を紹介しているので読んでみた。黄金比、三分割法、白銀比、ピクトグラム、シンメトリーの安定性、対応付け、アフォーダンス、角アール、面取り、ハマグリ締めなどなどが参考になったけども、それ以上のものは何もない。モダンデザイン、インターナショナルデザイン、ユニバーサルデザインという流れも本来は面白いはずの潮流なのだろうけれど、著者にかかればあまり関心を誘わないタームとなってしまう。問題は本書の体裁にあるかもしれないが、なんら深みのない新書であった。(最近の新書の充実ぶりからすればかなり期待はずれである。)

で、いま熱心に読んでいるのが鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』(講談社現代新書)。私は本を読むときいつもカバーをはずして真っ裸にして読む習慣があって、本書も例外なくカバーをはずしてみれば、全体が惜しげもなくピンクとなっていた。それはちょっと・・・。

現在半分ぐらい読んだところだが、なかなか面白そうである。ネットを中心とした若者の「祭り」現象(つまり、何でもかんでも盛り上がりたい癖)を分析しながら団塊の世代にはとても書けない若者論(なのかな?)を書いているようなので期待して読み進んでいるが、最初がニート問題を扱っていてわかりにくい文章のせいもありちょっとつまらない。これから大いに盛り上がっていくことを楽しみにしたい。
[PR]
by le-moraliste | 2007-03-30 02:39 |

自由の棘

写真のアップロードをほぼ諦めて、本を読んでみよう(四六時中何かの本を読んではいるけど)。

何年ぶりかに読み返す福田恆存『人間・この劇的なるもの』(中公文庫)。私が最も影響を受けた本であり、かつまた最も読み応えのある評論。赤線だらけの文庫本を紐解けば、思い出される福田恆存の文章が厳しく自分に迫ってくる。

「愛憎は裏切られ、憎しみは調停され、悲しみはまぎらされ、喜びは邪魔される。相手がなければ愛情も起こらぬが、相手があるがゆえに、愛憎は完成されない」、そんないらだたしい日常生活を送ることに諦めに近い思惑を擁きながら、密かにその諦めさえも「行けるところまで行きつくことを望んでいる」このどうしようもない人間というもの。

本質的に自由でありたいがために、「自己の宿命のうちにあるという自覚」を掴みとろうとする不思議な生態。しかるべく到達した現実を味わうために、私たちは自由を一度捨てておいて、その捨てた自由を今一度拾い、その棘のある感触に恐る恐る痛みを感じるのだ。

「限りない自己弁護」は止むことを知らないが、この痛みこそは現実なのである。「ちょうど画家が素描において、一本の正確な線を求めるために、何本も不正確な線を引かねばならぬように」、自己弁護の螺旋をくぐりぬけながら私たちはいつまでも、死の瞬間が訪れるまで、自由の棘を作り続けるのだ。

適当に書いたが、最後の「画家が素描において…」の一文は、忘れられない文章である。「一本の正確な線」とはあまりに狭くて不自由なものに思えるが、実はこの一本の線こそが自由を実感させるなんて、悲しいことだろうか。それとも喜ぶべきことだろうか。
[PR]
by le-moraliste | 2007-03-13 05:25 |
今日は目白の美容室へ、いつもならちょうど一ヶ月間隔で通うところを今回は一ヵ月半ぐらいのスパンで向かった。相変わらず寝坊をしてしまい予約時間を変更してもらう大変失礼をおかしつつ(本当にごめんなさい)、無事さっぱりしたところで常のように池袋のリブロで本巡りをしよう。

と、店内に入るところで気になる掲示を見つけて、もしやとよくよく目を凝らしてみれば、やはり「古本市」。運よく開催期間中だったため何年ぶりかの池袋古本市へ当然直行したいのだけれど、その前に少し気分を落ち着かせたい気配もあって、まずは例にならってリブロの各階を散歩。新刊本・雑誌棚をひと通り一瞥したものの買いたいほどの本は見つからず、やはり急かす気持ちを抑えきれずに古本市へ突入することに。

時間を経た紙特有の匂いが充満する会場は、とても懐かしい気分がする。早速、溢れるばかりの古本(古書はないんだが)の荒野をじっくり駆け巡る。こんな本もあったなぁ、ほーこれも古本棚に並ぶようになったかと感慨深く、一冊一冊確認するでもなしに探してみたものの、たいした収穫はなさそうだ。古本市の開催期間の終盤にあたるためか、目ぼしい本はほとんど見当たらず。(価格を度外視すればいいものも中にはあるけどね。)

結局、入江相政の随筆集と保阪正康の瀬島龍三伝と、あとなんかの思想史の本を購入。しめて千円弱也。落胆。

満足するわけでもなかったのでリブロに立ち戻って、人文書の階を彷徨う。そこで一冊のとても気になる本を見つけた。クリントン・ロシターの『立憲独裁』。一見、対極に位置するように思える立憲主義と独裁政治とが意外に密接な関係を有していることを述べた本らしい。これは面白そうだ。

本書の内容とは関係のないところで笑えたのが、某氏による前書き。日本国憲法に″特別な″思い入れがあるのだろう。昨今の憲法論議の活発さは表現の自由ゆえに望ましいと書いておきながら、何か前提があるのだろう、ちょっと留保をつけているのが、らしい。曰く、「議論が偏っているきらいはあるが」。

云うまでもなく、この「偏り」とは護憲よりも改憲の議論が大勢を占めていること指す。あぁ、どうしてサヨクはいつもこうなんだろう。自分たちの議論の客観的説得力の欠損が今ここにある現実によって証明されている只中にあって、自己の反省へ向かうべき言葉の矛先を、あろうことか現実の方に向けてしまう彼らの恥ずべき無垢。改正することそのものを悪と前提としていなければ、「偏っている」などという意識は持ち得ないはず。研究は第一に現実によってこそその成果の可否を問われる宿命にあるのに(唯物論ではないけど)、いつまでも無垢を脱ぎ捨てる勇気が持てない日本のサヨクは、本当に恥ずかしい存在である。

こういう研究がある、そしてそれは評価すべきものだ、と感じるのであれば、まだ本文のページを開いていない無数の読者たちに対して、本文の「前」にこんな一文を挿入することの狡さを彼らは恥とは思わないのだろうか。それだけではない。本の帯(裏表紙だったかな)には、この某氏の「まえがき」からの一節が引かれていて、これまた曰く、「ロシターの分析や主張に必ずしも同意しなくとも、彼の問題提起には真摯に耳を傾ける必要があるように思う」。

まだ、ロシターの一文も読んでいない大方の読者へ、本の目立つところにこんな言葉を印刷するなんて。「同意」していないのがこの某氏自身だけであることの明白さ(だって読者はまだ読んでないから)、単なる紹介者のこの御仁の印象を未読の読者に向かって予め提示せしめる厚かましさ(そもそもロシターに失礼だろう)、そうすることによって読者の買う買わないという動機と、実際に買って読むときに読者の頭の一片にこの御仁の考えを刷り込まれることによる率直な読書と、その両方に悪影響を与えかねない編集者の独善。悲しむべきことである。

もっとも、サヨクの言辞に慣れすぎた私のような人間にとっては、尚のこと、サヨクが愛憎半ばする本書を読みたくなる動機に直結する不思議な効果を生み出すのであるが。(ただ5000円だったため、今回は泣く泣く購入を諦めた気分だけ勇ましい自分。)

そんな久しぶりのドラマを愉しみつつ、リブロ近くのラーメンを食べて(まずかった、失敗した)、帰宅。
[PR]
by le-moraliste | 2007-02-19 00:03 |

三島か有島か

昼間、『春の雪』に続き『奔馬』を読み終えた。三島由紀夫。第一部より観念的すぎる小説だけど、切れ味は依然好調。引き続き『暁の寺』を読むために、それを今日買ってきた。のだが・・・。

懐忍ばせ用として読んでいた太宰治『晩年』を読み終えたので次はどんな小説を携えようかと自室の文庫棚をつらつら眺めてい、なぜかこれだと一冊の文庫を手にしたのが有島武郎『小さき者へ/生まれ出づる悩み』。夕食を摂りにいった居酒屋でちょっと読み始めたら、三島と全く異なる文体、物語世界にちょっと興奮。しかもそれが、私がお気に入りの欧米文学を彷彿とさせる、情感的でありながらもクールな文章だったからして、有島を先に読んでしまうかもしれない、家で。

有島武郎はもう何年も前に一連の文庫本を手に入れていたけれど、今の今まで読むことはなかった。なぜかは知らない。今回、場合によっては、『小さき者へ/生まれ出づる悩み』から真っ直ぐ『或る女』とか『惜しみなく愛は奪う』などを手にしてしまうかもしれない面白さを、有島の文学は持っているかもしれないと、今、思う。(一応、手に入れられる文庫本はすべて持っていたりするのだ。)
[PR]
by le-moraliste | 2007-02-18 05:28 |
仕事帰りに馴染みの古本屋に寄った。普通の、マンガが半分を占める、とりたてて安くはない古本屋なのだけれど、店内に入ると必ず古本を買ってしまう。特別欲しい本というわけでもないのに。

昨日購入したのは、保阪正康『昭和天皇』(中央公論新社)で(そう云えば"新"になる前のこの出版社も受けたのが思い出される。面接で蹴飛ばされたが)、定価の半額という割高なお値段。それでも、昭和天皇への関心は近頃とみに高まっているため、迷わずレジに持っていってしまった。

元々は明治天皇と大正天皇にこそ興味をそそられていたが、原武史・保阪正康『対論 昭和天皇』(文春新書)をかつて読んだときに、それまでの私的昭和天皇観を覆すような内容がべらぼうに面白かった。また福田和也も昭和天皇伝を連載中であるし、同じ保阪氏による昭和天皇伝を改めて読みたいと思ったわけである。

帰宅後に早速ページをめくり、時間の関係から長くは読めなかったけれど、つい、プロローグとエピローグをだけ読んでしまった悪い癖。その2章は昭和天皇の崩御前後の話だったのでそうなったとも云えるが、読みながら、子供の頃、テレビが一斉に沈鬱な放送を流していたことを懐かしく思った。当時は新聞なぞ読まなかったから(小学生時代)、初めて知る事実が多く(断片的事実は断片的に知ってはいたものの)、とても感慨深いものになった。昭和の終わりは冷戦の終わりとも重なるわけで、その歴史的意義の大きさを本を読んだだけでも実感する。

昭和の最後を間近で経験した医師団の人々の言葉が強く印象に残った。面倒なので引用しないけれど。
[PR]
by le-moraliste | 2007-01-18 21:19 |