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by le-moraliste
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赦されることの愛――ドストエフスキー『虐げられた人びと』(新潮文庫)

あまり小説については書きたくないけれど、メモしはじめたら長くなったので、一応の感想。ドストエフスキー『虐げられた人びと』(新潮文庫)。

今回再読してみて初読時ほどは感動しなかったが、美しい小説であることには変わりがない。これほど純粋に、愛をテーマとした小説がドストエフスキーにあるだろうか。ドストエフスキーのすべての小説は愛を基調としたドラマが展開されるが、これほど露骨に描いてみせたものは他に知らない。このテーマはまた、後に書かれる『罪と罰』のソーニャに再び結実するだろう。

浮薄で情緒的な貴族の子弟、アリョーシャに恋するナターシャについて、義兄ワーニャ(イワン)はこう分析する。

前後の見境もなく愛することの快楽を、そして愛する人間を愛するがゆえに苦しめることの快楽を、ナターシャはすでに味わっていたのであり、だからこそ急いで身を投げ出し、自らアリョーシャの犠牲になろうとしているのかもしれない。

このすばらしい女性にとっては、赦すこと、憐れみをかけることが、一種の無限の快楽だったのである。
ここでこの小説の核心が語られているがそれはさておき、一体ナターシャは〝快楽″のためにアリョーシャを愛していたのだろうか。愛することは〝快楽″にすぎないのだろうか。確かに、ナターシャが彼に向ける愛情は、あまりに野放図すぎる。アリョーシャの白痴さを知っていてもなお、彼を愛し続けようとする。いや、だからこそ、ナターシャは彼を愛するのだろうか。

「あのひとを愛しているんなら、私はすべてを犠牲にして、自分の愛を証明しなくちゃいけない、それが義務よ!」
「義務」にまで発展する愛情とは、そもそも何なのだろう。自分のすべてを犠牲にしてまで愛するほどの価値が、読者には、アリョーシャにあるとは思えない。だから非常に不可解であるし、あるいは愛とはそれほどのものなのかと読者を驚かせる。しかし、読者はそこに感じる苛立ちを否定できまい。なぜならば。

こういう人間にとっては、あとで幻滅を感じることはたいそう辛い。しかも自分に罪があると感じる場合は、なおさら辛いのである。なぜ期待できる以上のものを期待したのだろう。こういう人間は絶えずこうした幻滅に待ち伏せられている。彼らは自分の小世界に閉じこもり、そこから出なければ一番いいのである。彼らが自分の小世界を愛するあまり、そのなかで一種の人間嫌いになってしまう事実にも、私は気がついていた。
ナターシャがいずれ途方もない「幻滅」を味わうだろうということは、誰にでもわかるのだ。そのような人間は「小世界」で優しく育てられなければならないだろう。そこでこそ幸せを手にすることができる。だが大なり小なりの「幻滅」を味わずに「小世界」をただ愛玩していては、「一種の人間嫌い」に陥ることもあるかもしれない。事実、囲われた生活から自ら逃れ、ナターシャはアリョーシャを追いかけたのだった。彼女は、義務的な愛とやがて訪れるであろう幻滅との二律背反を引き受けようとしたのだろうか。

物語の終盤になってアリョーシャが自分のもとには二度と戻ってこないとわかったとき、ナターシャはこう呟く。

「私はあの人を愛していたのか、いなかったのか、私たちの恋愛は一体なんだったのか。・・・(中略)・・・私はあのひとを・・・・・・母親に近い愛し方をしていたのよ。でも二人が対等に愛し合う恋愛なんて、この世の中にはあり得ないような気もする。」
ナターシャの愛は敗れ、恋は終わった。激しく深い「幻滅」に襲われながら、自分の恋についてこう語るナターシャ。彼女が「母親に近い愛し方」をしていたから、アリョーシャは彼女から去っていったのだろうか。義務にも幻滅にも無縁な「対等」の愛とは、ありえない理想なのだろうか。その彼女が愛したアリョーシャとは、ワーニャによってこう描写される。

この青年には全く罪の意識がないのだ。この無邪気な男が罪を意識することなどあり得るだろうか。

アリョーシャが自分で考えたり判断したりする力をもたぬとすれば、自分に代わって思索し、意志をすら表明してくれる人物を愛するのは当然ではないだろうか。
この場合の「人物」とは、正確にはアリョーシャをナターシャから奪った貴族の女性のことだが、つまるところそれはナターシャに対しても当てはまる。アリョーシャが自分に必要な人を愛することには変わりはない。自分のすべてを犠牲にするものとしてのナターシャの愛と、自分の不足を補うものとしてのアリョーシャの愛は、けして「対等」にはなりえない。その端緒から、ふたりの恋愛は授受関係にあったのである。だとすれば、本当の愛、つまり「対等」の愛とは、どういう形をとるものなのだろうか。そこで、この小説のもうひとりのヒロイン、ネリー(エレーナ)が重要な役割をはたしてくれる。

ワーニャが遭遇したある老人の死。その老人の孫娘、ネリーに与えられた表象は、どうだろうか。ワーニャに悲惨な境遇から助け出されてワーニャの家に移り住んだネリーが、あるときワーニャの家を飛び出す。さんざ探し回った挙句にワーニャが目にした光景は、哀れにもネリーが橋の上で物乞いをしている姿だった。

私が愛し、可愛がり、いつくしんでいた何か貴重なものが、その瞬間、私の目の前で辱められ、唾を吐きかけられたように思われた。そして私の目から涙があふれ出た。
ネリーを恐るべき虐待から救い、目一杯の愛情を注ぎながらともに暮していたワーニャはそのとき、少女の傷がまだ癒されていないことに〝気づいた″。

こういう苦痛をいっそう掻きむしり、苦痛を愉しむやり方は、私にはよく理解できた。それは運命にさいなまれ虐げられ、しかも運命の不当さを意識している多くの人々の楽しみなのである。・・・(中略)・・・〔だが〕全く自分だけのために、この楽しみに耽っているのだろうか。何のための物乞い、何のための金なのか。
ネリーは施しをもらうと、すぐさま近くの店に入った。なんと、ネリーは、さっき家を出るときに自分が壊してしまった茶碗を買っていたのだ・・・! ワーニャはネリーに赦しを乞う。少女は涙を浮かべ、そんなワーニャの胸に飛びつく。・・・

この小説の最も美しい場面のひとつと云えるだろう。ネリーは自分の不幸を見せ付けるために物乞いをしていたのではなかった。あくまで他人に迷惑をかけまいとする、あまりに純朴な心がさせたことだった。自分を限りなく貶めようとする自虐的な性格は、彼女にとって世間から自分を守るための手段であり、怯えを覆い隠すヴェールである。だから、ワーニャがネリーの傷が癒えていないと思ったのは、けして間違っているわけではない。無償の愛に包まれることをたやすく許さない彼女の心の傷は、こちらから一方的な愛情を注ぐだけでは癒されないのだ。愛することに怯えず、愛されることに後ろめたさを感じないこと――つまり、すべてが赦される愛。いつか、彼女が人を本当に愛することができるようになってはじめて、心の傷は消え去りはじめるだろう。ネリーとは、赦されることの愛の大切さを物語る存在なのである。

ここでナターシャのあの言葉の意味が理解できるようになる。「対等の愛」というものが、はたしてこの世にありうるのか。それは、無償の愛、赦されることの愛にほかならない。その愛は自覚的な義務感を要求するものではなく、幻滅を限りなく希薄化させる。そのような愛は、まずもって家族の愛としてあらわれる。ナターシャは父に赦され、ネリーは世間に赦されることで、最後にふたりはワーニャたちとひとつの家族となって幸福に包まれた。結局、ナターシャはアリョーシャと家族になることはできなかったということだ。父に侮辱され続けてきたアリョーシャは、家族の愛など、一抹も知らなかった。家族の愛を知る者こそ、無償の愛を恋人に捧げることができるだろう。また知らないとしてもそれを強く求める者こそ、恋人の愛に自らの愛をもって応えることができるだろう。アリョーシャには、ただ無自覚な要求する愛だけがあったのである。

ところで、ちょっと面白かった部分。それは、金と名誉を追い求めることに屈託のない陰謀家、ワルコフスキー公爵が、その卑怯さをもって「まるでフリーメイソンよ!」と罵られるところ。フリーメイソンは、相変わらず評判が悪いなぁ。
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by le-moraliste | 2005-06-13 17:04 |