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by le-moraliste
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「自分」と「他人」――江藤淳『成熟と喪失』③(暫定文)

文学史的に云って、小島信夫『抱擁家族』のもつ意義とは何か。

私は前に、安岡章太郎氏の『海辺の光景』が、「個人」になることが達成すべき理想ではなくて引受けねばならぬ苛酷な現実であることをはじめて描き出したという意味で、注目すべき作品だといった。それが自然主義以来の日本の近代小説の、少くともその主流の発想をくつがえすような試みだったとすれば、小島信夫が『抱擁家族』で提出しているのは「白樺」派の理想に対する動かしがたい反措定ともいうべきものである。

(それは)いわば「白樺」の楽天的理想から生じた惨憺たる帰結である。「社会」を「人間の自然性」に「調和」させるなどということは、単に「社会」そのものの破壊を意味するにすぎないということを…(中略)…小島氏は描こうと試みている。つまり、自然主義派の考えた「個人」などというものが存在しなかったように、「白樺」派の考えた「人生」などというものもなかったのである。それがなければ、プロレタリア文学がその上に幻影を描いた「社会化された私」などというものもまたなかったのである。
江藤淳はこのように位置づける。ひとつずつ確認していこう。

(自然主義派については、後日記す。)

白樺派の一人、武者小路実篤は、これからの文学(自ら描くことになる小説)を、「社会」を「自然」に調和させる試み、「社会と人間の自然性の間にある調和」を発見する試みと期待した。しかしそれは、結局のところ、「あらゆる判断を生活の趣味化すること」(中村光夫『日本の近代小説』岩波新書)にしかならない。社会的なものもなにもかも、個人の生活に収斂させてしまったわけである。それは同時に「社会」そのものを「破壊」した。その意味で、『抱擁家族』の登場人物の個々人が全く「調和」することのない生活を送っていくという現実は、白樺派の論理的帰結であったのだ。

では、プロレタリア文学が憧憬した「社会化された私」とはなにか。中村光夫『日本の現代小説』より引用。

大正期の作家にとって、自己がすべてであり、他人は無であったにたいして、プロレタリア作家にとって他人(社会)がすべてであり、自己は無であったのです。

それは大正期の「ありのままの私」を否定すると同時に、「他人のための私」をつくりあげること、私を社会的意義ある存在にすることを芸術家の使命と信じた
続いて、福田恆存「近代日本文学の系譜」より引用。

(プロレタリア文学の世界観である)唯物史観はあきらかに自我のゆきづまりに対して一つの――彼等はそれを唯一の、と信じてゐたが――血路を示すものであつた。自我をそれ自身においてではなく、他我とのかかはりにおいて、さらに社会的現実のなかにあって、それに依存するものとして見ることを教へた。同時に、それまで自我の本質として考へられてゐたものが、たんに外部的なもの、社会的なものに還元しうることを明らかにした。エゴイズムを人間本来の悪としてこれに取り組んでゐた苦痛も、単純に社会悪の責任に帰せられた。たしかに彼等はあらゆる良心の問題を制度によって解決すべき道を示唆したのである。
白樺派の「社会」→「個人」という志向に対して、プロレタリア文学は、「個人」→「社会」という志向を持っていた。ならば、なぜそのプロレタリア文学の志向もまた失敗であったのだろうか。

なぜならすでに述べたように、近代日本の社会で人は「他人」のためにも「自分」のためにも生きられないように存在しているからである。「他人」のために生きて「責任」をとったり「救おう」としたりすればかならず「とまどわ」なければならず、「自分」のために生きようとしても「神」は現れず「世間」とは調和しないという孤独に落ちこむほかはない。したがって人は「自分」のためにもまた「他人」のためにも生きられず、そこに「社会化された私」などというものは成立しない。(『成熟と喪失』)
「他人」=「社会」のためにも生きることができず、「自分」=「個人」のために生きることもできない現代社会とは一体なんなのか。もちろんそれは日本の、という特殊性の強いものではあるが、『成熟と喪失』が書かれてから40年の歳月が経過している今、その間にいかなる解決を私たちは試みようとしたのだろうか。(以下、続く。たぶん。)
by le-moraliste | 2005-05-26 03:51 |