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by le-moraliste
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棋士であるということ――先崎学『フフフの歩』(講談社文庫)

将棋に興味を持ち始めたのはいつからだろう。「将棋」と云っても実際に指す将棋のことではなく、棋士たちのことだ。指すなら囲碁だと決めてちょっと勉強しているが、将棋はルール程度にしか知らない。もちろん、矢倉が何かもよく知らない。それでも――将棋(棋界)が面白いのだ。

たぶん、最近の加藤一二三九段のアノ事件が大きかった。いやそれよりも、NHK杯の放送で加藤九段を見たときの衝撃は強烈だった。あの立派すぎる体躯と落ち着きのない超早口。こんな個性的な人士が鎮座する棋界とは、一体何なのだろう。

将棋に興味を抱くようになった本当の最初のきっかけは、『週刊文春』に連載されている先崎学八段のエッセイだと思う(それから橋本崇載五段の大衝撃デヴューが続く)。それを読んでいると、内容・登場人物はよくわからないまでも、なんだか面白そうな人々が将棋をやっているのだなということくらいはわかった。そしてネットや何やらで徐々に棋界のことを知るようになると、先崎八段その人自身のことはもちろん、羽生四冠や谷川九段は有名すぎるとしても、森内名人や佐藤棋聖、渡辺竜王らを初めとして山崎隆之六段、近藤正和五段など、エピソード豊かな狭い世界の棋士たちに、すっかりはまっていた。

現在、このように棋界のこと(特に裏事情)がよく知られるようになった一冊の本のあることがやがてわかった。それが先崎学『フフフの歩』(講談社文庫)である。この本のタイトルは、実は知っていた。以前刊行されたとき話題になって、将棋に興味のない私の耳にも入っていたのである。これは『週刊文春』の連載をまとめたものではなく、雑誌『将棋世界』に連載されたものや単行本の『世界は右に回る 将棋指しの優雅な日々』(日本将棋連盟)を一冊に集めた文庫。著者20代の作品集(?)である。

なんといっても「モテ光君」(佐藤康光)や「偉大なる首領様」(滝誠一郎七段)、「神吉宏充六段」の話が面白いが、引用するならこの部分だろう。「単行本版解説」で大崎善生氏も書き写しているが、苛酷な順位戦の一局を終えたときに先崎氏の頭に浮かぶ、こんな言葉。

終了は一時過ぎだった。さすがに眩暈がした。
隣で指していた日浦さんや所司さんと外に出た。二時を回っていた。
不意に、ああ坂だ、と思った。将棋会館から大きな通りまでに近道があって、その細い道が、順位戦の夜だけゆるやかな坂になっていることに気付くのである。
坂の上にはなにかがあるような気がした。僕は、ゆっくりと昇ろう、と思った。
云うまでもなく、そこが〝坂″であることは普段から知っているはずである。改めてそのとき、そのことに「気付く」のは、達成感や疲労感といった言葉では片付けられない感覚によるものだ。それはきっと、空虚感の入り混じった、もっと複雑な心境だろう。一流の棋士たちにしかわからない特別な瞬間が、順位戦の対局のあとに彼らを襲うのだろう。坂のわずかな〝ゆるやかさ″にさえ、実感を込めざるをえないような何か。それは私には到底わからない。

もうひとつ、感動的なエッセイから引用。故・村山聖九段が病の身体を押してこれもまた順位戦の対局を終えたときに、その悲痛なまでの熱戦を観戦した先崎氏が漏らす言葉。このとき村山九段は手術をしたばかりで、医者の反対に逆らってまで臨んだ一局だった。手術前の対局においても「彼は死ぬ気だな、と思った。将棋盤の前で、死んでも悔いはないんだろうなと思った」と先崎氏に語らせるほどの執念を持って将棋を指していた村山九段は、この対局にもその執念で臨んだが結果、惜しい負けを残した。看護婦を控え室に待機させての対局だった。

いいものを見た、と思った。無神論者の僕だが、あの状態で、あれだけの将棋を指す奴を、将棋の神様が見捨てる訳がない。本心からそう思えてならなかった。
しかし、村山九段はまもなく病に敗れることになる。死に直面していてもなお棋士を盤に向かわせる将棋とは、繰り返すが、一体何なのだろう。そんな棋界をこれからも見守っていきたい。
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by le-moraliste | 2005-07-06 13:25 |